おっさんずラブが好き!

ドラマ「おっさんずラブ」の細かすぎるレビューブログ。OLの深い沼にハマって当分正気に戻れません。ほぼおっさんずラブの話題しかないかもしれない。ネタはバレまくりなのでご注意を。

essay.1 「本当にそうか?」

 前の記事に反応いただきありがとうございます。

 リクエストがあったので、書いていきたいと思います。



 書き始めた動機は、巷を騒がせている痛ましい事件であることに違いありません。

 が、そのことに関して、何か自分の意見を声高に言いたいわけじゃないんです。

 ただ、ここを読んでくださっている読者の方に向けて、もしも私の知見が参考になるなら、書く価値があるかな、と思ったまでで。

 なので、検索よけにタイトルは「essay」とします。

 断るまでもありませんが、読みたい方だけ読んでください。




 私が打たれ強い性格になった理由、考えてみたんだけど、色々色々ありすぎる。

 なかなかまとめて書くのは難儀なので、(これかな?)と思いついたのを適宜書いていくスタイルにします。



 でもやっぱ、うちの教育方針は大きかったと思うんですよね。

「よそはよそ、うちはうち」というのが、我が家は割と徹底していたと思う。

 例えば小学生の低学年のとき、田舎の小学校のこととて、集団登校であった。

 ピーカンなのでスニーカーを履いていきたいが、

「長靴を履いていきなさい」

と祖母に言われるわけだ。

「え、なんで」

「午後から雨が降るという天気予報だから」

 祖母の言は合理的なんですが、小学生にとって、周りのみんなが普通の靴を履いている中、自分一人長靴を履いていくのは、なかなかにキビシイ作業だ。

 注目を浴びるに決まっているし、どう考えてもカッコ悪いし、口の悪い男子が囃し立てるかもしれない。小学生男子ってなんであんなバカなんですかね。

 イヤだ、と断固拒否したいところだけれども、うちは子供に拒否権があるような家庭ではなかった。

 イヤだと言うと、理由を聞かれるだろう。

「え、だってちーちゃんもさなみちゃんも皆普通の靴だよ」

なんて答えようものなら、

「よそはよそ。うちはうち」

と言われる。

 あとはもう、抗議しても無駄だった。




 もう一つ。

「本当にそうか?」

と言うのも、よく聞かれた。

 みんなが当たり前だと思っていることでも、そのまま鵜呑みにせず、一度立ち止まって

「本当にそうか?」

と自分に問い直してみた方がいい。その習慣を身につけなさいと、口を酸っぱくして言われた。

 周りで大勢が同じ意見だからと言って、それが正しいとは限らない。

 よく考えもせず右に倣えというのは、厳に慎むべし、という母の教えは今でも私の中に生きている。




 なので、「常識」とされていることを、片っ端から(本当にそうかな?)と考えてみるのが好きな子供だった。

 女の子はスカートもズボンも履くのに、男の子はズボンだけで、スカートを履くとおかしいとされる。何故だろう?

 ませた女子はメイクに興味を示し、背伸びして唇に赤い紅を差す。なぜ人はわざわざ赤くした唇を美しいと思うんだろう?

 こういう思考遊びは、恐らく脳が一番発達する時期の小学校高学年~中学高校にかけてするには、最適だったのだと思う。

 上に挙げた例は、結局とことんまで考えて、男子がスカートを履く文化もある(英国のキルト等)、人は自然にまかせて放置したものよりも、人の手が入った人工的なものを美しいと感じる感性を獲得したとか、「それを文化と呼ぶ」のだ、という結論を得た。

 つまりは、「ところが違えば文化が違う」のであって、やはり絶対ではないということだ。

 逆に、昔からの言い伝え通りのことが結局合理的だった、ということもある。

 で、こういう「本当にそうか?」の先に、

「女性の人生のゴールは好きな人と恋愛して結婚して家庭をもうけることだと言われているけど、本当にそうか?」

というのもあるし、

「恋愛は男女間に特有の現象とされているけど、本当にそうか?」

という疑問も発生するわけだ。

 こうやって、自分の周りにあることをひとつひとつ考えて、なぜそうなっているのか、由来や合理性を検討し、自ら定義づけをしていった。

 

 

 

 ところで、私はいわゆる団塊ジュニアと呼ばれる世代で、小中高と、生徒数が非常に多かった。

 中学校は11クラスあり、1クラス40人以上いた。私たちが入学するときには教室数が足りず、プレハブの簡易校舎が作られていたほどだ。

 で、当時は徹底した管理教育が是とされていた。同世代の方なら記憶にあるでしょうが、登校すると先生たちがスカート丈を計ったりするアレですよ。

 私の中学も校則が細かく、すべてのものに華美は厳禁とされ、制服以外カバンも靴も何もかも学校指定で生徒全員が同じ恰好。私物である下敷きや靴下は白と決められていた。

 中学校入学当初、小学生のときから使っていた柄のついた下敷きを持っていって、先生に注意された。白いのを購買で新しく買え、と言うのですね。

 何故自分のを持っているのにわざわざ新しいものを買わないといけないのか?という質問に対して、

「校則で決まっているから」

という答えだった。

 なぜ校則でそう決まっているのか?に対しては、納得のいく回答はなかったと思う。

 生徒たちの多くが「校則で決まっているから」に大して反抗もせず従っていたが、私は納得できないことに唯々諾々と従うのは嫌だった。

 だっておかしいじゃん。学校は勉強するところであって、スカートが膝下何センチだろうが全然関係ないはずだ。

 しかし、当時の教師たちは、生徒たちをともかくも同じ基準の中に囲い込み、そこからはみ出そうとするのがいたら罰することに躍起になっているように見えた。

 それが教育なのか、と、当時中学生になったばかりの私は思っていた。

 今でも思っている。

 そんなの教育じゃない。



 まあそんな中、すべてに対して「本当にそうか?」をやっていたのだから、毎日非常に忙しかったのですよ。

 闘いの日々でしたね、今考えると。

 ホント言うと、そういうことを教えるのが真の教育なんじゃないですかね? これから先長い人生が待っている。自分で考えて、適切な選択を出来るようになるには、思考能力を高めなければならない。だからたくさんの仮説を与えて、「自分ならどうか」を考えさせる。

 私は暗記が得意で、勉強も好きだったけど、暗記が得意な人が高得点を取れるテストって片手落ちだとも思っていた。暗記=勉強じゃないもん。

 学校で先生が教えてくれないばかりか、邪魔をしてくる。今考えても最悪だったわ。

 まあでもそんな中、自分の頭でずっと考えていたわけです。

 反骨中学生ですね。




 続きます。

 

 

管理人の質問箱・2

 こんばんは。今宵も閲覧いただきありがとうございます。

 久しぶりに質問箱です。

 前回の質問箱をご存知ない読者の方のために念のため説明しておくと、このブログにおける「質問箱」とは、管理人読者の方に質問するコーナーでございます。

 あ、管理人に関して何か知りたいと仰る奇特な方がいらっしゃれば、質問は随時受け付けております。

 

 

 時々いただくコメントに、私の書く記事が冷静である、と評価していただくことがあって、この評価は正直嬉しく感じている。

 以前から言及している通り、私は家の中が物理的に散らかっているのは平気だが、頭の中がとっ散らかっているのは嫌いだ。それはそれ、これはこれ、と分けて考えておきたい。

 この考え方をマスターしていると、自分の本意でない出来事が起こって、ネガティブな感情が沸いてきた場合に、対処しやすい。

 何か心無い言葉を投げつけられて、真に受けてザックリ傷つく、というような事態を回避することができる。

 私は欠点だらけの人間ではあるけれど、長所も多いと自認していて、そのうちのひとつが「打たれ強さ」だと思う。

 

 

 昔からそうだったわけではない。

 多感だった時期、ちょっとハブみたいになったことがあって、私も十代の前半だったから、めちゃくちゃ辛かったんだけど、(これからの長い人生で、きっとこういう事態は何度も起こるだろう。ただ、一人ぼっちになったとき、一人になりたくないという理由で自分の本心を偽るようなことはしたくない。じゃあ、一人でいても平気なように、自分の精神を鍛えよう)と決意した。

 結果的に、そのときの鍛錬は、その後の人生をめっちゃ生き易くしてくれた。

 あのとき、精神修業の道を選んだ中学生の私に、今でもマジで感謝している。

 

 

 ……でね、周りを見ていて、(生き辛そうだなあ……)と思う人、結構いらっしゃるんですよね。

 大抵、真面目な人で、自分に対して評価が厳しいとか、他人から言われたことをうまく消化出来ないでネガティブに捉えちゃうとか、そんな感じに見える。

 ちょっとした「視点」の転換で、生き辛さの解消って出来るのにな、と思っていた。

 まあでも多分、生まれ持った性質とか周りの環境とか、複数の要素が作用するのだと思うけれども。

 

 

 で、質問。

「人からなんと言われようと自分を否定せずにいられる」方法を知りたい!という方、いらっしゃいますか?

 管理人個人の経験でよければ書きます。

 

 というものです。

 需要がなければ、別に自慢するような特別なことは何もないので、書かないでおきます。

 

 今月の末日までに反応がなければ(スターもつかずコメントもない状態)、需要はないものと判断して、この記事も消します。

 

 

 今突然こんな記事を書いた理由は、殊更書きませんが、恐らく皆さんの想像通りかと。

 

 以上、管理人からの質問でした。

ここは天国じゃないんだ

 かと言って地獄でもない

 いいやつばかりじゃないけど

 悪いやつばかりでもない

 

 

www.youtube.com

 

 こないだからなぜだかこの歌が頭の中で回っている。

 

 

 弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者を叩く

 その音が響き渡れば ブルースは加速していく

 見えない自由が欲しくて 見えない銃を撃ちまくる

 本当のことを聞かせておくれよ

 

 

 私がブルーハーツにハマったとき、世の中はまだカセットテープの時代だった。

 ラジオを聴いて録音して、擦り切れるまで何度も聴いた。

 中学生だったっけなあ。

 こんな歌を作るなんて、天才だと思った。

 今でも思っている。

 

 

 多感で反抗期まっさかりだった私は、母と度々激しい口論をした。

 生意気で、世の中で一番自分が偉いと思っていた。

 でもこの歌を聴くと、(さらに弱い者を叩くような真似だけはするまい)と心に刻んだ。

 今もだ。

 

 

 世の中いい人ばかりではないし、悪いヤツばかりでもない。

 でも、周り中敵だらけのような気分で生きている人もいる。

 この世は地獄だと感じている人もいる。

 

 

 この歌、日本国民全員が聴けばいいと思う。

 

映像研には手を出すな!【2】 自虐しない、蔑まれもしない、新しいオタクの世界

※「オタク」という言葉の語義は、S40年代後半生まれの筆者が捉えたものです。年代によって定義が違うかもしれません。

 

 この世に「オタク」という言葉が誕生してから、どれくらい経つんだろうか。

 キャ〇テン翼や聖☆〇矢の同人誌が作られ(当時はまだ『やおい』と呼ばれていた)、メ〇ノンやジュ〇ンには絶対に登場しないファッションの青年たちが秋葉原に溢れるようになったころだと思うんだけど、あれは昭和の終わりかな。

 二人称代名詞が、「キミ」でも「あなた」でもなく「お宅」と呼び合う異彩を放つ一群、確かにいましたね。なんだったんだろうあのヘンな言葉のチョイス。

 だから、最初は間違いなく「オタク」というのは悪い意味だった。

 オタクと呼ばれる人たちは、そうでない人たちから、蔑みの意図を持って「オタク」と名づけられていた。

 で、当時は蔑まれる相応の理由があった。



 「オタク」=「余人には理解し得ない趣味に深く入れ込む人」、みたいな意味で紹介されることが多いけど、最初からそういう意味だったわけではない。

 その意も確かに含んでいたけれど、「オタク」と呼ばれる一群の、別の特徴を指して「オタク」と言われていたような気がする。

 子供のころって、仲のいい友人同士で妙な言葉がブームになったりするじゃないですか?大人の言葉を覚えて、お互いを「〇〇氏」と呼び合ったり、「我々は」とアジテーションのような言葉遣いをふざけてしたり、そんなの当たり前にある現象だ。

 だから、それはいいのだ。けれども、大抵の子供(ここでは中高生あたりを指していると思ってください)は、自分たちの文化を共有しない集団の中では、弁えて、仲間内だけの隠語的な表現を使わない。「空気を読む」と言うとちょっと語弊があるけれども、いわゆるTPOというやつですね。聞きなれない言葉を聞けば誰でも戸惑うし、仲間だけで内輪受けしてヘラヘラしているようでは、周りから浮き上がる。何より、お互い気まずい思いになる。

 中高生くらいにもなれば、「他人に無闇に気まずい思いをさせない」程度の心配りは出来るようになる。

 しかし、「オタク」と呼ばれる人種はそうではなかった。

 公共の場でも声高に「〇〇氏~!」と呼び合ったり、友人を紹介されて、いきなり自分の趣味について弾丸のようにまくし立てたりした。相手が自分の話を理解しようがおかまいなし。

 つまり、他者との交流をはかるべき場面で、相手の意図を慮ることなく、まったく自己流で事を進める人たち。マナーをわきまえないばかりでなく、ともすれば自分がある分野にかけて博識であることに非常に優越感を覚え、なおかつそれを剥き出しにするような人たちのことを指して、「オタク」と総称していたと思う。

 なんのことはない、重度にして傍迷惑なコミュ障かつ極度の自己中と断じて差し支えないでしょう。

 あの独特のファッションセンスだって、服なんて基本好きなもの着りゃいいけどさ、せめて周りの人が(うわぁ…)と思わない程度の清潔感は保った方がいいと思うわ。

 昔はステレオタイプのTHE・オタクがいたけど、あの人たち、今でも棲息してるんだろうか。



 ところが、言葉というものはいつの時代も、時間が経つと意味が変わってくるのですね。

 「オタク」=「マニアックな趣味を持つ人」にいつしか変容していった。が、「周りに言い辛い」「周りからなんとなく下に見られる」というオプションはそのまま残っていた。

 で、段々と、自分の趣味をマニアックだと自認する人たちが、自虐的に「私はオタクだから…」と言うようになった。

 そのうち、マニアックな趣味ならなんでもかんでも「〇〇オタク」と呼ばれるようになった。



 さらに時は経つと、今度は、そのニッチな趣味に沿う雑誌なんかが出てきますわね。どうかすると書店の雑誌棚のメインにどーんと平積みされてたりする。テレビで取り上げられたり、〇アゴスティーニの週刊分冊になったり、特に興味がない人でも眼にする機会が増えると、「えええーそんな趣味!?」と驚かれていたものも、「あー、なんかテレビでやってたね」くらいのノリになる。

 すると、趣味をカミングアウトする方も、「あ、私鉄オタなんで」とあっけらかんと言うようになる。

 かくして、「オタク」という言葉からは、当初の悪い意味はすっかり消え去り、「ちょっとマニアックな趣味を持つ人」並びに「その趣味に並々ならぬ情熱を傾ける人」くらいの意味になった。

 しかし、相変わらず「オタク」と告白する方は若干自虐気味に言うし、随分毒は薄まったけど、なんとなく「アンダーグラウンド」的な匂いもそこはかとなく漂っていたと思う。




 ここまでが、またしても長い長い前置きでした。




「オタク」という言葉が以上述べてきたような歴史を持っているという前提で、「映像研」を見てみよう。

 映像研の3人は、紛れもなくオタクだ。最初から「浅草氏」「金森氏」と呼び合っている。浅草みどりは特に、後に水崎ツバメに指摘される通り、「変わった話し方」を用いて会話するキャラだ。彼女がこれまで読んできた本or見てきたアニメ世界の言葉なんでしょうね。

 そういうツバメは、「〇〇氏」と二人を呼ぶことこそないけれども、オタクの範疇に入れて差し支えないだろう。アニメのことになると夢中になって、金森さやかの言う言葉もまるで耳に入っていなかったりする描写があるし、早口の趣味全開弾丸トークはオタクのお家芸でもある。カリスマ読者モデルの割に、ツバメが興味を向けるのはアニメオンリーで、服やメイクにはまったく関心なさげ。

 だけど、このアニメ、全編を通して、恐らく一度も「オタク」という言葉が登場していない(登場している箇所があれば訂正しますのでご指摘ください)。

 彼女たち自身が自らを自虐的にそう称することもないし、映像研のクリエイター・浅草・水崎両名のアニメへの熱量に辟易し、(こいつら…めんどくせぇぇ~!)とロボ研メンバーが慨嘆する場面があっても、「これだからオタクは…」的な述懐はない。

 「オタク」にも濃淡の度合いがあって、より「オタク」度が高いのが浅草氏と金森氏であり、ロボ研では部長氏になると思われるが、「どこからどう見てもオタク」な人と、「オタクっぽい」人、「オタクだけど一般人ぽい」人等、カテゴリ分けも見られない。

 物語の前半では、教師を詭弁で論破し、高校の同好会の範疇を超えた活動をしようとする金森さやかをプロデューサーに頂く映像研を「パブリック・エネミー」として目をつける生徒会も、「オタクだから」と言うこともなければ、他の生徒と異なるという点を指摘することもない。




 浅草みどりが最もオタクらしい性質を発揮するのは、好きなアニメの世界を説明する場面だ。

 例えば第一話、アニ研の上映会に潜り込んだ浅草みどりが、「この作品は何がいいのか」と金森さやかに聞かれて、メカやキャラクターの魅力、ディティール描写の演出の妙を、延々と説明し続け、辟易したさやかが「もういいです」とバッサリ切る。

 その切り方も、「求めた以上に解説されるのは苦痛です」という理由。同じような場面を他の作家が書いたら、「オタク全開じゃないすか」とかなんとか、そういう台詞を入れてもおかしくないし、実際入れても違和感はないと思う。

 が、ないのだ。

 その理由は、さやかの方もオタクだから……なんてことではない。

 もっと別の理由がある。




 私もこのブログ記事で何度か自分のことを「ヲタ」と自称している。登場頻度の高い「変態」という呼称(と言っていいのか)は、言わば「ヲタク」の最上級であって、他の自称「変態」さんたち同様、そこには自虐が含まれる。

 ここまでひとつの対象(私の場合は『おっさんずラブ』というドラマ)にハマり、いつまでも抜け出せないのは、「普通じゃない」という価値観を前提とした自虐だ。

 自分で分析してみせるのもアレだけど、つまり私が自分のことを「変態」「ド変態」と称するとき、そこには

「ここまで入れ込んでひとつのドラマに関するレビューやら感想やら役者やらのことについて延々書き続けてるのって普通じゃないですよね、スミマセン。自分でも分かってるんですよ、分かってるんですけどやめられないんです。分かる方だけ分かってください」

的な、羞恥心をまぶした「分かってるんですよ」アピールがある。

 いずれにせよ、「ひとつの対象に深く入れ込む」ことは、普通じゃない、という暗黙の共通理解があるわけだ。

 もちろん、まっとうな社会人として働き、自分の時間と金を好きなものに費やすことに何の負い目もないわけで、今の時代、そんなことで他人の趣味を攻撃するような大人気ない人もかなり減っている(ゼロではない)ことも分かっている。

 分かっているけれども、どこかに「普通の人」=「何かに心を捕らわれて家計を圧迫するほどの金額を投じたりすることなく、淡々と盛り上がりのない生活を送っている」みたいな思い込みがあるような気がする。

 実際、例えば某アイドルの握手会チケット付きCDを爆買いする人に対して、自分は何ひとつ迷惑を被っていないにも関わらず、

「イイ年してイタイんですけど」

と冷ややかに見下す風潮、今でもある。

 その趣味が何かの役に立つとか、利益を生まないのであれば、そんなことに傾倒するのは生産性がない、といったような非難を聞くこともある。



「映像研」は、オタクたちの世界を描いているのに、「オタク」という言葉が登場しない。

 「オタク」という言葉がそもそもないのだ。そして、今現在我々が持っているような「オタク」の概念が、最早消失している世界なんじゃないかと思われる。

「映像研」メンバーが、アニメ制作に情熱を傾けることに対し、誰も否定しない。「オタクっぽい」からと蔑まれることもない。

 生徒会は、学校運営の観点から映像研の活動に制約を加えようとすることはあるが、作品制作に関しては特に何も言わない。

 つまり「映像研」の世界は、「ひとつの対象にマニアックな興味を抱き、情熱を傾ける」という行為が、全肯定されている世界なのだ。

 だから、浅草みどりも水崎ツバメも、技術や演出面でつまづいたり苦労したりしながらも、好きなアニメを描くことに没頭し、伸び伸びと才能を開花させていく。

 スキルが進化するにつれ、作品世界のグレードもアップし、彼女たちの眼に映る世界も美しく輝いていく。




 つまり「映像研」とは、「オタクが一切差別されない世界」であるばかりか、「オタクと一般人の区分け」自体がなくなっている世界なんですね。

 舞台設定は2050年代とのことだから、「ちょっと先の、実現しているかもしれない世界」を描いているという点では、「おっさんずラブ」に共通するものがある。

 「差別のない世界」って、差別される側にとって平和であるだけでなく、差別してきた側にとっても優しい世界なんですよね、実は。

 この漫画を描いた作者が、現在弱冠27歳の若者である事実も、非常に頼もしく思える。



 続きます。

切ったりモヤったり癒されたり。

 こんばんは。今宵も閲覧いただきありがとうございます。

 表題は何かといいますと、こないだからどうしようか迷っていたんですが、今日ついにチャレンジしました。

 セルフカットです。

 

 

 いやーもー髪の毛が伸びて伸びて。気温が上がってきたし、クセッ毛で鬱陶しいなーと思ってたんですよね。

 私が住まう自治体では感染の拡大も落ち着いていて、美容院も開いてるから行けないことはないんだけど、どうも行く気になれない。

 こないだから、YouTubeで美容師さんがあげてくれているセルフカットの映像見たりして、予習はしてたんです。

 むかーし、自分で切ってる時期があって、誰にもバレなかったし、そこそこ器用な方だからまあいけるじゃろ、と見切り発車。

「シェーざます」のイヤミ先生みたいな髪型だったんですけど、そこからショートボブになんとか寄せました。

 後ろと横切るのが大変だった……まあ、後ろから見たときに「ん?」て思う人もいるかもしれないけど、気にしない。

 伸びたら誤魔化せそう。

 

 

 しかし、今日はどうも調子が出ず、自主トレもお休みしました。

 なんかやる気になんねーなと思ったときは、とりあえずトレーニングウェアを着てみると、大概「……うーん、ちょっとだけやるか…」てなって、始めると楽しくなってきて結局やっちゃうんですけど、今日はなんかもう全然その気にならなかった。

 お腹の底がモヤモヤモヤモヤしてですね。。

 今週はトレーニングの強度をあげてHIITもやってたし、無理はやめとこ、と自分を甘やかすことに。

 まあストレスもたまりますよ。最近、ついついこの自粛期間の長さを数えちゃってゲンナリすることも増えてきて。

 緊急事態宣言は解除になったんだけど、そうなったらなったで、不安の種が解消されたかと言えば、全然されてない。

 うちの職場、来週出勤があるのかどうかも分からない。

 いやー……こんな状況が続けば、そりゃ自粛疲れにも陥るというものだわ。

 今日は料理もまったくスイッチが入らず、お昼はぶっかけ釜玉にゅうめん、夜はお茶漬けというやる気のなさ。

 しかし明日食べるものがないので、お茶漬け食べた後一応明日のおかずは作りました。

 なんだかんだマジメなんだよなあ自分……

 

 なんか鬱々としたまま寝るのはイヤだったので、なんかないかとない知恵を漁って、(そうだ、こんなときには天使を見よう)と、今週やってた逃げ恥の録画を再生。

 はー、ガッキーはいつでも可愛いねえ……癒される。

 

 

 日常が突然断たれてしまってから、もう何カ月も経つ。ストレスが蓄積している人も多いだろうと思われる。

 皆さん、頑張り過ぎず、「しんどいな…」と思ったら休んで、無理せずにいきましょうね。

にがくてあまい

 この自粛生活にも、歓迎すべき変化というのもいくつかあって、そのひとつはネットで視聴できるドラマ・映画がめちゃめちゃ充実したということだ。

 以前探したときには見つけられなかったんだけど、ふと(そう言えば今なら見られるかも)と思い立って探してみたら、アマプラにありました。

 「おっさんずラブ」放送時からすると、ビデオパスとか、アベマとか、アマプラとか、有料のサービスに金を惜しまなくなってるからなあ、私の方も。

 ひとつ沼に落ちると、かくも財布の紐は緩むのだ。



 さて以前から観たかった「にがくてあまい」、本日視聴しました。

 面白かったです。

 以下、ざっくり感想。

 ネタバレしてますので、未見の方はご注意を。

 



 まあこれを言ってしまうと身も蓋もないんだけど、主演の二人が美しいよね…!

 川口春奈林遣都、二人とも超がつく美形なので、いつどの瞬間を見ても絵面が綺麗。眼福。

 世間に顔を晒す職業についてくれてありがとう…!て拝みたくなった。

 

 

 ラブ・ストーリーの王道は、ともかくも二人が「正反対」という路線だ。

 その路線にのっとって、川口春奈が演じる江田マキは偏食でガサツなOL、林遣都が演じる片山渚は筋金入りのゲイのヴィーガン青年。

 酔い潰れたマキを渚が家まで送る羽目になり、住んでいたマンションを追い出されるタイミングだったマキが、渚を半ば脅迫する形で強引に同居生活を始める。



 マキは野菜が嫌いで、見るのもイヤ!というほどの拒否っぷりだったのに、同居の条件として「出されたものは全部食え」と言い渡した渚に渋々従って彼の手料理を食べ、「何コレ美味しい!」てなって、野菜を食べられるようになる。

 この、料理をする渚と、美味しそうに食べるマキの場面が度々出てくるんだけど、包丁で野菜を刻む遣都は美しいし、もぐもぐ頬張る川口春奈ちゃんも可愛いし、ここ見てるだけで幸せになる。

 なんなら最初から最後まで特にストーリーの起承転結もなく、淡々とただ渚が料理して、二人で食卓を囲む様子をドキュメンタリー的に見せてくれてもいい。

 それくらい、二人の食卓が豊かで、そこに流れる時間を共有したくなる。




 映画としての出来は、うーん、それほど高くないと思う。

 物語的には核となるはずの、渚の兄についての真相は語られないままだし、前半に出てきたタレントの女の子の出し方も中途半端。(原作では兄に絡む人物らしいので時間の関係で端折ったかと思われる)

 仕事でテンパったマキが麦茶を必死に探し出して飲むシーンがあるんだけど、(……なんで?)と感じた疑問が解消されるまでが長すぎる。

 ところどころ、(雑だな…)と感じる部分がある。



 ……なんだけれども、前述したように、二人でいる絵面が美しいのよ。ともかくも。

 私は自身が料理を好きで、野菜も大好きなのと、食べたものが人を作るのであり、食とは人の根源であると思っているので、美味しい野菜を美味しく料理し、食べさせるという行為自体に、映画が描く以上のメッセージを受け取ってしまっているかもしれない。

 だから、見る人によって受け取り方が全然違ったものになるだろうなーと思いつつ、私は楽しんで観ることが出来た。



 あと、主演二人の演技力に負うところは大きいと思う。マキはそこそこワガママなので、えーこれ実際やられたらどうよ…ということもしちゃうんだけど、川口春奈がやると、ギリ許せる。渚も、若干手を焼きつつ、内心は可愛いと思っている様子が伝わってくる。

 全然違う2人が、段々心を許し合って、時間だけでなく、別の何かを共有するようになり、距離が近づいていくさまは、見ていて心を打たれるものがあった。

 そうなんだよな、他人と住むって、自分の思う通りにならないし、ストレスに感じることもあるけど、違う個性とぶつかることからのみ得られるものも確かにあるわけで。

 マキと過ごすうち、渚も変わっていく。

 こうやって誰かと過ごすのって悪くないなあと思わされました。



 

 て言うかさ、渚みたいな可愛い青年が家にいて、料理作ってふるまってくれるとか、最高じゃない? おまけにゲイってことは、どうこうなっちゃうこともほぼないわけだから、うわーそれいいじゃん…!て一瞬夢見そうになったわ。笑

 でもそうやって住んでるルームシェアの人、現実にいそうだけどね。




 ただ、渚がマキに向ける感情は親愛と友情であって、ラブではないんだな。途中で(これどうやってラブに持ってくの…?)と思ったら、最後までそのままだった。

 だろうな、と思って、そこはリアルでよかったです。

 私は原作を知らないんだけど、このまま一緒に住んでいたら、もしかするとラブが芽生えるかもしれないし、それは分かんないよね、と思えるラストでした。




 休日の昼下がり、コーヒーでも飲みながら気楽に見るにはうってつけの映画かもしれない。

 あと、川口春奈ちゃんと遣都のファンなら、見て損はないですね。

 



 以上、雑な感想でした。



 以下、くだらない追記。

「マキ」て打つと私のパソコンは「牧」を第一変換に出すので、いちいちカタカナに変換しなくちゃいけない。めんどくさいんだけど、(よしよし、そのままでいいんだよ、愛いヤツめ…)とちょっとニヤニヤしながら上の記事書いてました。笑

 あともう一つ、こないだ「天使にラブソングを」のレビュー記事でちらっと「チアダン」について触れたんだけど、今週地上波で放送するんですね。ビックリした。

 で、今日は沖縄に行ってたことが露見した俳優が謝罪したとネットニュースで読んで、直後に「にがくてあまい」見たら、その当人が出てたからこれもビックリした。

 …とここまで書いてから今日のテレビ番組をチェックしたら、今日の今日、鶴瓶の「家族に乾杯」、ゲストが川口春奈ちゃんの回が再放送。( ゚Д゚)

 立て続けに偶然が起こると面白いですね。

映像研には手を出すな!【1】これまでになかったタイプの新しい「部活」マンガ

 「映像研」の第一の魅力は、「部活もの」であるということだ。

 自分の身体は一つだから、興味を持つ対象があっても、あれもこれも試してみることはできない。漫画やアニメや小説でその世界を深く知ることは、実際の体験の代替行為になる。

 だから、一回もやったことがなくても、野球やテニスやバスケットのルールは知っていたり、リアルの試合観戦を楽しむことも出来るのだ。

 にしても、アニメって今まで扱われたことがあったのかな?

 そもそも「連載されている漫画を読む」という行為自体、遠ざかってもうん十年になるので知らないんだけど、「アニメ制作」に焦点が当てられたのは、少なくとも全国区で放送されたアニメとしては珍しいのではないでしょうか。



 若い世代は最早紙の漫画を読まなくなっていると聞く。けれども、この国でアニメの薫陶を受けていない世代があるだろうか。あんまりないんじゃないか?

 それにはやはり、宮崎駿監督の存在は大きいだろう。特に、ルパン三世の「カリオストロの城」や「風の谷のナウシカ」が公開された頃をリアルで知る世代にとっては、宮崎作品と言えば絵本でもあり教科書でもあったと言えるほどの影響力を持っている。

 いや、今ね、関西ローカルで早朝「赤毛のアン」やってるんですけど、クレジット見てスタッフがあまりにも豪華でビックリしたんですよ。監督が高畑勲、15話までは宮崎駿が作画スタッフに加わっている(カリオストロの制作のせいでアンから離れたそうな)。キャラデザは今は亡き近藤喜文氏。テーマソングは三善晃作曲・岸田衿子作詞ですよ。すげーな!

 NHKの深夜、「未来少年コナン」の再放送やってて、こっちも言わずと知れた宮崎作品。(「映像研」の初回にも登場しましたね)

 なんかこう、つくづくさ、私らって宮崎さんの作品見て育ってきたんだなあ……と思わされました。



 アニメ制作の裏話って、ジブリの公式本だったり、公開前の特集番組でちらっと窺い知ることが出来る程度で、がっつりそこを取り上げた作品て、今まであんまりなかったんじゃないかと思う。私は知らなかった。

 アニメが好きということは、もちろん裏事情も知りたいに決まっている。

 その意味でも、「映像研」は好奇心を大いに満たしてくれる作品であった。

 



 私も絵を描くのが好きで、子供時代は本当に絵ばっか描いてたんですけど、「絵を描く」という作業一つとっても、タイプは異なるのですね。

 本作の主人公・浅草みどりは、設定と世界観を考えるのが大好きなタイプ。空想に耽って、自分の脳内でずーっと遊んでるの、私もよくやった。あれって、一人っ子特有の一人遊びなのかと思ってたけど、そうでもないんだね。

 一話で出会って仲間になる水崎ツバメは、興味の対象が人物。スケッチブックにはひたすら人物のデッサンの練習絵がある。

 この二人が、お互い得意な分野を担当し、苦手を補い合うことで、アニメ制作に取り組んでいくことになる。

 



 でもですね、浅草みどりと水崎ツバメを結びつけるのは、自分は全然アニメに関心がない3人目、金森さやかなんですね。

「水崎氏、この浅草みどりとアニメを作りませんか」

と申し出ることで全てが始まる。

 既にアニメ研究会があるからと難色を示す学校側に、「映像研究会」として届け出を出すことで、活動を始めることを認めさせる。

 才能を見出し、組織を作り、活動を軌道に乗せていくプロデューサーとしての能力の開花ぶりはめざましい。

 この金森氏、初回から名言をばんばん飛ばすんだけれども、二人に

「我々はモラトリアムに守られているんですよ。失うものなんて何もない」

と檄を飛ばす場面は痛快です。見ていて非常にカタルシスを得られる。

 アニメ制作を支えるのは、実に有能なプロデューサーなのだということを示している点も、これまでのいわゆる部活漫画とは一線を画していると思う。

 全体の工数を把握し、締切を設定して作業を進めさせ、一方でクリエイターの気質や生理を把握して、かける言葉を考え抜いてチョイスする。

 この金森さやかというキャラクターは、金勘定にかけては一家言持っていて、金に関する名言の宝庫でもあるんだけど、それについては項を改めて書きます。




 人間の能力の中で、想像力って本当に凄いと思う。想像する世界の中では何をするのも自由だ。

 で、その想像を形にする手法のひとつがアニメ制作だけれども、人物の描き方、風景の切り取り方、カメラの回り具合によって、どんな世界観でも描くことが可能となる。

 毎回、3人が作品世界に入り込んで、その中で動き回る描写があって、楽しいんだけど、時として、予想よりも遥かに壮大で美しい風景を目にすることになり、本人たちもその壮麗さに息を飲む……みたいななりゆきになることがある。

 映像研が動き出して、最初の仕事を依頼するロボ研、背景を協力してくれる美術部、ほとんど映像研の一員になる音響部の百目鬼氏、等々、仲間が増えていくことで、描ける世界も規模が大きくなっていく。

 映像作品のモチーフが決まったとき、あるいは実際の映像作品が上映されたときなんかの、一番最後に

「ババーン!!」

とキャラの声が効果音を言うのが、浅草氏一人だったり、映像研の3人だったり、ロボ研も含めた大勢だったりするのも楽しいです。




 ところで、日本のアニメーターを取り巻く環境は、決して恵まれたものとは言えない。かつてジブリがアニメーターを募集したとき、提示された月給に対して、日本国内は「さすがジブリ、普通の会社員くらいな給料を貰えるんだ」という反応だった一方で、海外からは「えっ……天下のジブリのアニメーターがたったこれだけの報酬しか貰ってないの…?」的な反応が返ってきたとか。

 日本のアニメを作ってきたのは、手塚治虫宮崎駿という二人の天才だったことは間違いないけれども、膨大な作業量に対しての報酬を確保できない業界の体質を作ったのもこの人たちが原因と言われており、悩ましい状況だ。

 しかし、日本のアニメーションは世界に誇れる文化であって、この業界全体の体質改善は喫緊の課題と言えよう。

 優秀なアニメーターは相応の報酬を貰えるという、当たり前の構造があってこそ、これからも素晴らしい作品が生まれる土壌が出来るのだ。




「映像研」を見た若い世代の中から、浅草氏や水崎氏のような優秀なアニメーター志望が増え、のみならず、金森氏のようなシビアな金銭感覚を持ったプロデューサー志望者が増えるといいな、と思います。