おっさんずラブが好き!

ドラマ「おっさんずラブ」の細かすぎるレビューブログ。OLの深い沼にハマって当分正気に戻れません。ほぼおっさんずラブの話題しかないかもしれない。ネタはバレまくりなのでご注意を。

天使か悪魔か

 昔よく読んでいた作家の一人に、新井素子がいた。

 この人が出てきたとき、いわゆる「小説」を取り巻く界隈……うーん、何と言ったらいいんだろう。「文壇」とまで言うと大げさなんだけど、ともかく、

「なんかこれまでにいなかったタイプが出てきた!」

と、ちょっとした衝撃が走ったと記憶している。

 一人称が「あたし」で、主人公の語りで進む形式。文体といい、台詞といい、マンガをそのまま文章にしました、みたいな感じで、今で言うライトノベルの走りだったと思う。

 だけど、その後雨後の筍のようにわらわら沸いたライトノベルの書き手と新井素子とは、全然レベルが違っていた。

 ライトなのは文体だけで、発想といい構成力といい、群を抜いていた。

 だからどの話も、誰と誰が出てきて、何があって、こういうラストで……とくっきり思い出せる。

 新井さんと、もう一人当時の少女小説世界を席捲していたのが氷室冴子で、この二人の著作のお陰で、非常に楽しい中高生時代を送れた、と実感しています。




 まあそれはともかく。

 新井素子の掌編に、この世がチェス盤のようになっていて、天使と悪魔がゲームをしているのだ、という内容のものがあった。どの本に入ってたか忘れてしまったけど。

 その本を読んで以来、時々、

(今は悪魔側が次の手を打ってきたな)

とか、

(こういう事件が起こると、地球の裏側でまた違う事故が起こったりするんだな)

とか、今のこの状況がゲームのどういう局面なのか、妄想してみたりするようになった。




 悪魔は何とかして人類の数を減らそうとあの手この手を尽くす。

「よーし、天然痘だ! ペストだ! 今度はインフルエンザだ!」

 天使は何とかして人類を守ろうと、武器を授ける。

「何、人間には知性がある。ウィルスの発見と予防法、薬の開発で病気は克服できる!」

 確か、新井素子の小説では、敵が繰り出したワザそのものを封じ込めてはいけないんじゃなかったかな。だから、ウィルスをなくすことは出来ないけど、その代わりに人類に対抗手段を見つけさせる…的な。

 と考えると、本当に、この世は天上で誰かがゲームしているかのように思えてくる。

 これまでも度々、疫病やら幾度となく繰り返される戦争やらで、壊滅的な打撃をこうむりつつも、その度に不死鳥のごとく蘇って、また繁栄をしてきたのが我々人類、ということになる。




 なので、去年の2月頃、また悪魔の囁きを聞いたような気がしていたのだ。




(ここらでまた新しい疫病を流行らせよう……今度のウィルスにはどんどん変異していくようプログラムを仕込んでおこう)

「コロナウィルスの変異種投入!」

 対する天使側、最初は余裕だったかもしれぬ。

「何、ウィルスは人を介さないと増えないんだ。しばらくは接触しないよう控えていれば、それほど拡がりはせんよ」

「ふっふっふ、さーて、それほど人間諸君が賢く立ち回るかね? 君たちが思っているより人間はバカだぞ」

「一人の人間の知恵は知れているとしても、結集すれば何倍にもなるのが人間の知力だよ。『三人寄れば文殊の知恵』と言ってね。仲間がいない孤独な悪魔には分からないかもしれないが」

「さてね。『烏合の衆』という言葉もあるがね。愚か者をいくら寄せ集めたとしてもわあわあ騒ぐだけで対して有効な手立ては考えつかないと思うがね」




 さあ、今笑っているのはどっちだろう。

 私には、陰険な顔した悪魔が頬杖ついてブランデーかなんかくるくるしている姿が目に浮かぶようなんですけど。




 一向に勢いが衰えないコロナウィルスの拡大。

 社会が分断されつつあるように感じているのは、私だけではないと思う。

 毎日のように芸能人の罹患のニュースが飛び込んでくる。最初、1週間に数人だった。それが今や、一日に数人に増えている。

 野々村真さんのコロナ罹患のニュースには心を痛めた。「世界ふしぎ発見!」をずっと見ていた視聴者にとっては、彼はいつまでも「若手のオトボケキャラまことくん」であって、身内とまではいかないまでも、「またいとこ」くらいな身近さで親しみを感じてきた芸能人だったからだ。

 なかなか病院に入れず、自力でトイレに行くのも困難になっていた、というのを最後に、オリンピックだったこともあって、しばらく情報がなかった。ハラハラしながら待っていたから、退院のニュースを聞いて心底ほっとした。

 治ってよかったですね。




 綾瀬はるかがコロナ罹患というニュースを聞いたときも、(あーまた一人……それにしても綾瀬はるかのような国民的女優が…)と胸が潰れる思いだった。

 ところが、綾瀬はるかさんのときは、SNSで見かけるコメントがかなり違っていた。

「すぐ入院出来るなんて、有名人は得ですね」

だの、

「なんで野々村真は待たされたのに綾瀬はるかは即入院出来るの? 上級国民だから? そんなの差別じゃない?」

だの、怖い感染症に罹った人に対してかける言葉とは到底思えないものばかりだった。

(え……だって、そのとき近くの病院に空きがあるかどうかなんて、それぞれの自治体で全然違うだろうし、タイミングだってあるじゃん。何言ってんの??)

とこれは、自分が実際罹ったことがあって、少しでも事情が察せられたせいもあるかもしれない。

 ヤフコメって、一つの記事に対して、めちゃくちゃ偏った意見ばかりが寄せられるイメージなんだけど、アレ、なんなんですかね??

 怖いわ。




 でも、コロナという病気の持つ怖さはこれなんだ。

「罹患した」と聞くと、(気の毒に…)と思うけれども、一方で、

・ちゃんと感染対策はしていたのか? 不要不急の外出は避け、大勢と集まることもせず、マスク・うがい・手洗いは実行していたか?

 ということは気になる。

 気になるだけならいいが、疑わしい事実があると、

「だから感染したのだ。自己責任だ!」

となりかねない。

 で、今現在、都市部では前々から言われていた医療崩壊が現実のものとなっている。入院が必要なのに、自宅待機を余儀なくされている患者が大勢いる。その中で、こうして「罹患したけどすぐ入院できた」という有名人が現れると、

「出来ない人がたくさんいるのに! 差別だ!」

などと、罹患した人を非難するような風潮が生まれてしまう。

 芸能人なんだから、入院した後に公表したのであって、一般人とそれほどかけ離れた治療過程ではないはずなんだけど、煽情的なコメントがあると、次々とそれに煽られた人たちが書きこんでしまう。

 結果、コロナ罹患者がまるで罪人のような扱いを受ける羽目に陥る。




「くっくっく……順調に拡がっているな。ホラ言っただろう。人間は馬鹿なんだよ」

「調子に乗るな! 全世代ワクチン接種すれば、コロナの収束もすぐだ」

「一体いつ終わるかね。大体、これだけ全世界でコロナが拡がっているのに、オリンピックを強行するなんて愚の骨頂だろう。だが実行してしまった。……こんな連中に、コロナの根絶なんて到底無理だろうよ」

 うぐぐぐぐ……と、人間の味方である天使が唇噛みしめて血が出てないといいけど。




 で、今んとこ「コロナに感染する確率を減らせる」手段がワクチン接種しかないので、私もワクチン予約しました。

 なんか、副反応とか色々怖い噂も聞きますけどね。

 それについてはまた今度。




 皆さまもどうかご無事で。

 心身ともに健康でいらっしゃることを祈ります。

「猫の恩返し」感想

 こないだやってましたね。

 録画して見ました。




 ジブリ映画ではあるけど、宮崎駿監督作品ではない。

 いわゆる「パヤオブランド」ではないんだけど、ジブリ映画の中で好きな作品のひとつだ。

耳をすませば」のスピンオフ的な位置づけというのもあるかもしれない。

 ジブリって、冒険とロマンがいっぱい詰まった壮大なストーリーが売りのようでいて、意外とこういう、THE☆少女漫画なお話がうまいなあと思うんだけど、「耳をすませば」も「猫の恩返し」も両方パヤオじゃないのだった。




猫の恩返し」は、何と言うか、まことに「ちょうどいい」んだな。

 スケールはそれほど大きくない。だから肩が凝らない。気を抜いて、コーヒーでも飲みながら、あんまり頭を使わずに見ていられる。

 ドキドキもハラハラも、それほどしない。キュンとしたり、ちょっとせつなかったりはするけど、それだけ。

 でもそれがちょうどいい。いい塩梅。

 ただでさえストレスが多い世の中、さらにコロナ禍の下で、これ以上余分なエネルギーを使いたくない。

 予定調和の優しい世界。

 そういう映画が存在してくれると、ひととき、心安らかな時間を送ることが出来るのです。




 ある日たまたま助けた猫が、猫の国の王子様だった。なーんて、いかにも女子高生が考えそうなファンタジーだけど、その通り、これは「耳をすませば」のヒロイン・月島雫が作った物語、というふれこみなんだな。

 荒唐無稽なファンタジーのようで、久しぶりに見直してみると、色々、(ちゃんとしてるな…)という感想を抱いた。

 猫の国からしゃなりしゃなりと大名行列がやってくるのは夜。猫が夜行性というのもあるだろうけど、怪異が起こるのは夜と相場が決まっておる。

 不思議な声に導かれた主人公のハルが、バロンの住む街へと迷い込む。時間の経過と共に日は落ち、黄昏時を迎える。日が没するちょうどそのとき、バロンに生命が宿り、いきいきと動き始める。

 これはもちろん、「耳をすませば」で聖司がバロンを雫に見せるときの場面を踏まえての設定なんだけど、ファンタジーにおいて「黄昏時」というのは重要な時間帯だ。

 昼と夜との境目こそが、彼岸と此岸が近づくときで、人間とそうでないものとの交流が生まれる時間帯だからだ。

君の名は。」でも、黄昏時=誰そ彼どき、彼は誰どき、と古語の解説がなされ、主人公の二人はまさに黄昏時に時を隔てて会うことが出来た。




 物語とは、人が神話の昔から連綿と紡いできたものであり、そこで作られた約束ごとというのは、今に至るまで生きているのだ。

 これまでの常識に囚われない、新しい物語というのも、もちろんあってもいいし、面白ければ何でもいいんだけど、古くから受け継がれてきた決まり事には、それなりに存在理由があるのであって。

 よほど作り手の描きたい世界観がしっかりしていて、見る人を惹きこむ魅力があれば、それはそれで成立すると思うけれども、そうでなければ、約束ごとを踏襲せずに作られた物語は、作り手の知識が乏しいのか、思慮が浅いのか…という、浅薄な印象を与えかねない。

 ……とこれは、こないだの「バケモノの子」で抱いた細田守作品と比較しての私の感想です。




 実際、「創作」とは言うけれど、何かをゼロから作るというのは、ほぼ不可能なことだと思う。

 文章を書く人なら、まず本を読むのが好きだろうし、アニメを作る人なら、漫画やアニメが好きだろう。必然的に、これまで親しんできた作品の影響を大なり小なり受けていることになる。

 同じ型、同じ構造を持つ物語はいくつもある。

 それを、「パクリ」「二番煎じ」と感じさせるか、「オマージュ」と受け止めさせるかが、作り手の腕の見せ所だと思う。

 

 

 何度も何度も見ていたのに、「ラピュタ」と「カリオストロの城」がまったく同じ構造を持つ、ほぼ同一といっていいお話だと気づくのに、私はかなり時間がかかってしまった。

 気づいたときの衝撃。

 これはやはり、料理人の腕がいいからでしょうな。

 



猫の恩返し」はその点、まったく目新しい要素はほとんど見当たらない。

(あーこれ見たことある)のオンパレード。

 だがそれが、例えば冒頭、バロンの邸が映し出されると、(あ、『耳をすませば』の地球屋に似てる……)と記憶が刺激されたり、街で見かけた白いブタ猫をハルが追っかけていく場面なんかは、雫がムーンを追いかける場面をきっちりなぞっていて、「耳をすませば」を見たことがある人には嬉しいサービスになっている。

(あーこれこれ! これ見た!)というのが、嬉しい驚きになっているのがうまい。

 猫の国に連れていかれた後も、猫になっちゃったのを嘆くハルを楽しませようと、猫王が

「何か楽しいことをやれ!」

と周りに命じる。このくだりも、いろんなお伽話で見たことがあって、女子高生のハルが物語の中に入り込んだ証拠みたいで面白い。

 目新しい要素を使わなくても、構成と演出次第で、いくらでも面白いお話は作れるという好例だと私には感じられた。




 私は猫がとても好きで、好きすぎて飼えないくらいの猫好きだからして、妙に人間チックにデフォルメされたネコのキャラクターやイラストは受け入れられないんだけど、このお話の猫は好き。

「恩返し」と言いながら、次々とクソ迷惑な仕掛けをやらかしてくれるお調子者のナトル、猫が喋れたら本当に言いそうな自己中な台詞が可笑しくて、ムカつくんだけど憎めない。

 主人公のハルちゃん、可愛くて、抜けてて、ちょっと動くとすぐつまずいてすっ転ぶ。いかにも「りぼん」かなんかの少女漫画誌で主役を張りそうなヒロインだ。きっとそこそこ運動神経はよくて、勉強はあまり得意じゃないんだろうな。

 やり過ぎるとあざといけど、これも絶妙なバランスで、愛せるヒロインに仕上がっていると思う。

 バロンが文句なくかっこよくて、これもよかったですね。なにしろあの雫が惚れこんで考え出したキャラクターだもんね。そりゃ、すべての二枚目要素を詰め込んでないと。

 最初から最後まで、頭のてっぺんから爪先……いや尻尾の先まで、「バロン」の称号にふさわしい男前ぶりでした。

 そう、彼に「イケメン」という軽薄な形容詞は似合わない。

 ここはやはり、「男前」でしょう。 



 あ、そうそう、この映画も職業声優じゃなく、役者が声をあてていますが、見事に違和感がないですね。

 うーん、パヤオよりもよっぽどキャスティングがうまいんじゃないだろうか。

 主役のハルを演じた池脇千鶴を始め、バロンの袴田吉彦も、ムタの渡辺哲も、トトの斉藤洋介も、イメージといい演技といい、ぴったりハマっている。

 あのコワモテの丹波哲郎

「あるわけないニャ!」

とか猫語でアフレコしてるところを想像するとちょっと笑っちゃうけど。笑

 しかし、王子様のルーンを演じた山田孝之が当時19歳というのがどっひゃーだよね。確かに若々しく凛々しい声だよ。

 しかし、19歳かぁ……時の経つのは早いのう。。。(ため息)




耳をすませば」のスピンオフらしく、爽やかで可愛らしい、読後感…というのにあたるのは何というのか。「視聴後感」? まあともかく、見た後に心が和んで、はりつめていたものがふっとほどけるような、そんな作品だと思います。

 掌編と言っていい規模の作品ではあるけど、ジブリのお約束、「空を飛翔する」シーンはちゃんとあって、見どころも十分。

 

 

 本家と言うべき「耳をすませば」の感想も、機会があれば書きたいと思います。

(どうせそのうち日テレさんが『〇のジブリ祭り!』とか言ってやってくれるじゃろ……)




 ことほどさように、ジブリの作品に親しんで、ジブリの作品を見て育ってきたと言っても過言ではない私だけど、宮崎駿というクリエイターに関しては、稀代の天才として尊敬しつつ、言いたいことも沢山ある。

 間違いなく一時代を築いた偉大な人であるだけに、その功罪も大きい。

 それについても、またいずれ。

ハートのぶどう

 夏って、果物が美味しいですよね。
 私は葡萄が好きだ。桃も大好き。一等好きなのはグレープフルーツで、でもパイナップルもハーフサイズが200円とかだとつい買ってしまう。
 まあ春夏秋冬、果物って美味しいんですけどね。


 そんで、昨日種無し巨峰を買ったんですね。
 今日の朝ごはんのデザートに食べようと思って、洗ってみたら、こんなのが混じっていて驚いた。


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 神社の石とか、牛の背中とか、自然が作ったハート型を見つけてきゃあきゃあ言うタイプではないんだけど、こんな偶然があると
「わあ、こんなん初めて見た!」
てなって、若干テンション上がりますね。笑
 なんかいいことありそうじゃないですか?


 梅雨が終わったはずなのにずーっと雨ばっかりだったり、またしても緊急事態宣言が出て、(何度目だよ……)とウンザリしつつも、でもやっぱりコロナは恐ろしい勢いで拡大してるから、行きたかった映画我慢したりね。
「竜とそばかすの姫」見たいんだけど、こんな状況下だと二の足を踏んでしまう。
 そこら辺歩いてるのが、顎マスクで歩きタバコぷかぁ…のおっちゃんとか、やっぱり顎マスクで缶コーヒー飲みながら談笑してるサラリーマンだったりとか、もうみんな自分は絶対コロナに罹らないと思ってるんだろうね。(こういう奴が感染を拡大しているのだ…)と内心奥歯ギリギリ噛みしめたい思いだったりさ。
 まあ、なかなか、
「人生は楽しい!」
とポジティブに捉えてばかりではいられない昨今でございます。


 それが、このハート型のぶどう一個で吹き飛ぶわけではないんだけど、ラッキーの兆しだといいな、とささやかな思いを託したくもなりますわね。


 いやー、でも、私は葡萄が大好きで、シーズン中には割ともりもり食べるんだけど、こんなの初めて見たよ。
 タイ焼きは躊躇なく頭からがぶりと食いつくタチですが、これはちょっと可愛くて、すぐには食べられんな。
 しばらくとっておこう。


 というわけで、ハートのお裾分けでした。
 タイトル、どうしようか考えたんだけど、うまいのを思いつかなかったのでそのまんま。
 お皿の柄が昭和なのはご愛敬。。

「バケモノの子」感想 ※ネタバレあり 

 ひと昔前は

「夏はジブリ!」

と某〇テレの宣伝がかまびすしかったが……いや、それは今もか。春夏秋冬「〇はジブリ!」と言ってるけど。

 まあそれはともかく、最近は

「夏は細田守!」

でも違和感なくなってきた。ジブリ映画の専売特許ではなくなってきた感がありますよね。

 代表作である「時をかける少女」と「サマーウォーズ」の舞台が夏で、どちらも真っ青な空に真っ白な入道雲が印象的な作品だからかな。

 宮崎駿監督の後継の1人として挙げられることも多い細田守監督だが、この人の作品は評価がはっきりと二分されるみたいだ。

おおかみこどもの雨と雪」が、私はとても苦手で、見ていると何故だかむくむくと不快感がこみあげてきて、見終わった後も胸の中にざらっとイヤなものが残った。

 なので、「バケモノの子」も見る前にちょっと身構えてしまっていた。が、実際見てみると、予想以上に面白く、楽しめた。

 以下、感想。

 ネタバレは大いにしております。

 閲覧注意。



 アニメのよさは、アニメだからこそ「実写よりも美しい映像を作ることが出来る」という点にある。

 細田作品でも、映像の美しさは遺憾なく発揮されている。特に冒頭、バケモノの世界とキャラクターが炎のシルエットで紹介される場面、私は好きだ。ダイナミックな動きが文句なくカッコいいし、これから始まる物語を予感させて、ワクワクさせられる。

「バケモノ」とは言いながら、描き出される異世界は秩序が保たれ、人々は平和に暮らしており、街並みや大自然の描き込まれた描写にも目を奪われる。



 キャラクターもいいですね。九太も熊徹も好き。西遊記を思わせる百秋坊と多々良もよい。この辺は皆役者が達者。

 宮崎あおいはうまい俳優だなあと思う。

 あと、リリー・フランキーね。あのキャラの容姿はアテ書きかな。声の質も台詞回しも聞いていて安心する。

 こういう比べ方はアレなのかもしれんけど、細田監督は俳優(職業声優でない)の使い方がパヤオよりもうまいと思う。違和感を覚えるキャスティングがあまりない印象。



 初見は楽しめたんだ。予想していたよりも面白く、作品世界に惹きこまれた。

 ただ、二度、三度と繰り返し見てみると、アラが目につく作品でもある。



 そのー……色々と「惜しい」んですよね。

 ひとつには多分、「言葉足らず」「説明不足」が大きいんじゃないかと。

 分かりやすいのが冒頭だ。

 大泉洋リリー・フランキーが、これから始まる物語の口上を述べる。

「昔むかし、いやそれほど昔じゃねえ。ほんの少し前のできごと」

と、時代がいつなのか、はっきりとは分からない風にぼかしてあるのは悪くない。「お話」だからね。

 しかし、熊徹の説明が惜しい。

 粗暴、傲岸不遜、手前勝手と短所を述べた後に、

「弟子の一人もいやしねえ」

「まして、息子なんかのいるはずもなかった」

 と続けている。

 普通に聞き流していたんだけど、かすかに引っかかっていた箇所だった。

 考えてみれば答えは簡単で、「弟子」➝「息子」が飛躍しすぎているのだ。

「弟子の一人もいやしねえ。嫁に来たいと願うものなどいるはずもない」

ときて、

「だから、息子なんか望みようもなかったのだ…」

と続くなら、「弟子」➝「嫁」➝「息子」と、人間関係の近さがなめらかになって、飛躍がない。



 話すとき、しばしばこういう飛躍をやらかす人は多い。かく申す私自身もその傾向がある。

 本人の頭の中では辻褄が合ってるんだけど、他人に話すときは、分かりやすいよう所々注釈を入れなければならない。それを怠ると、

(あ?………あー、そういうことね)

と、聞いた方が理解するのにタイムラグが生じることになる。その分、ストレスを強いられることにもなる。

 ちょっと考えて分かるならまだいいけど、考えても(??結局なんだったんだ?)となったら、モヤモヤがもっと大きくなる。



 これは、細田監督のクセなのかなあ。「バケモノの子」全編にわたって、随所にこの「説明不足」「言葉足らず」が見られるんだよね。

 熊徹のライバル猪王山は、人間の子に構う熊徹をいさめるのに、自分も人間の子を育てている。その矛盾についても説明がない。

 宗師様の後継は、技量から言っても人品骨柄から言っても猪王山で決まりなはずで、周りの異論もなさそうなのに、何故強いだけで教養もなく粗暴な熊徹がライバル候補に挙げられているのか、そして宗師様から寵愛されているのか、それも分からず。

 バケモノの世界と人間の世界がどういう法則で成り立っているのかも分からない。

 細田監督の頭の中では、裏設定とか、しっかりあるのかもしれない。

 でも、これまで色んな物語で慣れ親しんだ「異界」のルールがまったく見られないので、この作品の世界観がよく分からないのだ。

 バケモノたちも九太も、好きに行き来出来るみたいだし。「千と千尋の神隠し」みたいに、「その世界のものを食べないと消えてしまう」という決まりもないみたいだし。

 普通は、異界に行ったからには、その人間は何かを失うのだ。だけど、九太はバケモノの世界で育てられたというだけで、人間界にも身内はいるし、誰も彼のことを忘れていない。

 何も失わず、ペナルティも負わず、せいぜい名古屋と大阪を行き来するような気軽さで、人間界とバケモノ世界を行ったり来たりしている。



(え……じゃあ、バケモノの設定、要る……?)

てなるよね。

 ビジュアル的には面白いけど。




 冒頭で、「息子」と言及されているから、これは熊徹と九太の、父と息子の物語なんだな、と思って見るわけじゃないですか。

 ところが、実の父親も無事生きてるんですよね。そんで、ちょっと探したら会えちゃう。あれも拍子抜けだった。

(え、そんな簡単に会えちゃうの…?)

みたいな。

 まあでも、そんな疑問も最初はうっすら感じるのみで、一応楽しく見てたんだけれども。




 終盤に差し掛かり、いきなり物語のメインが一郎彦になったから、戸惑うよね。

 完全に闇に呑まれた一郎彦が主役になってしまった。

 熊徹と九太の親子の信頼関係を描きたい監督の意図は理解出来ないこともないけど、それにしても、終盤で物語を動かすのが一郎彦なので、お話の軸がよく分からなくなってしまった。

 よく分からないと言えば、楓の存在もよう分からん。

 広瀬すずも、力のある女優だと私は思うけど、本作ではちょっと浮いてるし、キャラの存在意義が謎。



 多分、要素を詰め込みすぎなんじゃないかなあ。

 人間界とバケモノ界、血のつながらない親子、血がつながった親子、遺伝と環境、闇に呑まれる心の弱さと真の強さ、そんなものを散りばめたお話を作りたかったんだと思う。それは理解出来る……というか、推察は出来る。

 ただ、「散りばめた」になってないんだ。単に「散らかってる」印象。

 だから、それぞれのエピソードの繋がりが弱い。優れた作品は、縦糸と横糸が組み合わさって、全体を遠くから見たときには見事な模様が描き出されているものだけれど、残念ながら、「バケモノの子」にはそれがない。

 見終わった後、

(……結局、監督の伝えたかったことは何だったんだ…?)

と、頭の上にはてなが浮かぶ。

 つまりは、デザイナーであり織り手である監督の腕の問題なんだろう。




 と言って、「面白くない」と言ってるんじゃないんだ。

 面白いには、面白いんですよ。見ごたえがある。演技もよい。

 だからもっと物語を推敲して欲しい。説明するべきところはきちんとして、物語世界の法則が観客によく分かるようにしてくれたら、もっと入り込んで鑑賞出来ると思う。

 枝葉の部分はとっぱらって、メインテーマをくっきりと示して欲しい。

 

 

 

 昨今、映画やドラマに「分かりやすさ」ばかり求める視聴者が増えたと聞く。それは私もそう思う。

 描写から、あるいは台詞の文脈から、描かれていないことを「察する」「読み取る」読解力が低い視聴者が増えているような気はする。

 だけど、細田監督の作品の分かりにくさは、そういうことではないと思う。

 そこは表現者として、手を抜いてはいけない、丁寧に作らないといけない部分ではないのかなあと、私は思います。



 なんだかんだ、こうして長文の感想を書くくらいには面白かったのだ。

 なので是非、細田守監督には、もうちょっとだけ頑張ってもらって、自分の趣味だけでなく、広く一般の人にも理解できるような作品を作っていただきたい。

 こんな世の中だ。良質なエンタメ作品が一つでも多く作られることを願ってやまない。



 よろしくお願いします。

雨中お見舞い申し上げます。

 いやー……よく降りますねえ。

 一昨日も降ってて、昨日も一日中大雨で、今なお降っている。やむ気配がない。

 ここら辺は雨の予報が外れることが多く、西日本一帯雨でも、ここだけ降ってなかったりもするんだけど、今回は日本列島をすっぽりと覆っているアメフラシから逃れることが出来なかったようだ。

 空が明るいから、もしかして小やみになるんじゃないかと、2時間おきくらいに窓の外を見るんだけど、いつ見てもざあざあ本気で降っている。

 来週まで降り続けるそうな。

 ノアの方舟のときはこれが2カ月続いたんだっけな、そりゃ世界が水に沈みもするわな……と創世記の一章に想いを馳せてしまった。




 お盆ですが、帰省はやめました。

 本当は帰るつもりでいた。今度こそ帰れるだろうと思ったし、高速バスのチケットを取ったときには、コロナの感染も比較的落ち着いていた。

 ところが7月末あたりからあれよあれよとまた増えた。

 

 

 各方面に言いたいことはたくさんあるが、あまりしみったれた愚痴も言いたくない。

 感染拡大に「オリンピックは関係ない」と言い切ったどこぞの首相には、

「へえー………」

 としか。




 まあ、これだけ降れば、帰省を決行していたとしても、移動が大変だっただろうと思う。

 帰ったところで、どこかに気軽に遊びに行けるご時勢でもないし。

 3日の連休をじーっと家でとじこもって過ごすのも得意だ。

 というわけで、筋トレしたり、なんかちょこちょこ料理したり、動画を見漁ったりしております。

 皆さまは如何お過ごしでしょうか。




 室生犀星の「小景異情」、好きだった。



 ふるさとは遠きにありて思ふもの  そして悲しくうたふもの

 よしや

 うらぶれて 異土の乞食となるとても

 帰るところにあるまじや



 この詩がまざまざと胸に迫る日が来るとはなあ。まあ、別にコロナさえおさまれば帰れるようになるだろうし、犀星と違って特に複雑な家庭事情があるわけでもないから、並べて語ることは出来ないけれども。



 二度目のお盆だけど、ばあちゃんの供養も出来ないことがやや悔やまれる。

 つーかこんだけ雨降ってて、あの世の人たちはちゃんとこっちに来れてるのかな。。




 まあともかく、色々とままならないことも多いけれども、というかままならないことばかりだけども、健康で生きていればなんとかなる。

 皆さん、めげずにいきましょう。

 ね。




 大雨ですが、どなたさまも大きな被害に遭われませんように。

 

孤独のグルメ

 ここんとこずっと、休みの日にはアマプラで「孤独のグルメ」を見ている。

 きっと面白いんだろうな~と思いつつ、見る機会を逸していたドラマの一つ。

 今や動画コンテンツが花盛りで、見たいと思ったドラマは大概どこかでやっている。

 これもコロナ禍が変えた世の中の形だなあ。



 このドラマ、ただひたすらに

 

松重豊が飯を食っているだけのドラマ」

 

 と言っても過言ではない。

 なのに何故こんなにも惹きつけられてしまうのか。

 謎。



 松重豊演じるゴローさんこと井之頭五郎は、「輸入雑貨の貿易商」という仕事を自営でやっている。

 毎回、その仕事の相手とのやりとりが描かれ、一癖も二癖もある顧客の皆さまに翻弄されつつ、自分の仕事をきっちりやろうとするゴローさんの誠実さとか、職人気質な性質が視聴者に示される。

 カタログをめくってすぐに

「これにする!」

と即決したかと思いきや、10秒も経たないうちに

「あ、やっぱりこっちにする」

「いや、やっぱりこれだな!」

とコロコロ注文を変更した挙句、

「こんなに選択肢をくれる井之頭さんが悪い」

と平然と言ってのける小男や、

「井之頭さん、独身なんでしょ?」

と口説いてくる配送業の女性や、

「あのー、なんか、エモい感じで!」

とサッパリ具体的なイメージを言わない若者等々、登場する顧客のキャラがなかなか濃ゆい。

 見ていて(えー、こんなお客さん、困るなー…)とこちらも思わされるのだが、彼らと真摯に向き合ったゴローさん、困難な折衝が終わると大抵

 

(腹が、減った………)

 

と棒立ちになるのであった。



 1stseasonの三話あたりまで見ると、もう大体(あ、そろそろゴローさんの腹が減るな)と見当がつくようになる。

 ビンゴのタイミングで

 

(腹が、減った………)

 

てなって、ちょっと口を開けて街中で呆然としているゴローさん、もとい松重豊

そこから気を取り直して、

(店を探そう)

と決然と歩き出す。

 ただそれだけなのに、なんと言うか、「絵面が決まってる」というのかな。なんとも言えず、様になってるんですよね。

 演者である松重さんが長身痩躯だからなのか。

 私は「面魂」のある顔が好きだと、再三述べてきたと思うけれども、松重豊という俳優にはこの「面魂」が間違いなくある。醤油顔だかソース顔だか知らんが、昨今ふにゃふにゃした面の優男がもてはやされる傾向にあるけれども、「面魂」は大事だと思う。(どん!)

 ま、表情によっては般若のごとき形相ともなり、見る人をビビらせることもあるんですが(笑)、ともかくも松重ゴローは、

「おっさんが一人で空腹を感じて飲食店を探してものを食べる」

というだけのドラマを、難なく成立させてしまっているのだった。




 タイトルに「グルメ」とあるけど、気取ったグルメ評論なんかでは決してない。

 選ばれる店は、その辺のごく庶民的な店だ。海辺の街で漁師飯を出している食堂とか。一見猥雑な、メニューが100以上あるんじゃないかというくらいの居酒屋とか。

 そういう店でゴローは飯を食う。おっさんだから、頭の中でしょうもないことを考える。

 絶対とんかつを食べたくて歩き回った末に美味しそうなとんかつ屋を見つけて、

(歩いた甲斐が有馬温泉

とかダジャレを呟いちゃう。

 でも彼はふざけているわけではない。今から食べようとする料理と、ゴローさんはいつだって真剣勝負だ。

(さて、どこから攻めるか…)

とメニュー表を睨んで沈思黙考する。

(店主のおススメにそそられるけど、ここは初志貫徹)

と意思を曲げないこともあれば、

(え、じゃあこっちにしてみよう)

と冒険することもある。

 いざ料理が運ばれてくると、しげしげと見入る。

 今ちょうどSeason7の第一話を見てるんだけど、とんかつの大きさに仰天したゴローさん、スケール出してサイズを計っていた。

 なんでやねーん、と思うけど、それだけ目の前の料理と真摯に向き合っている…ということだろう、多分。うん。

 そして実食。松重ゴローさんは本当に旨そうに飯を食う。口一杯にほおばって、もぐもぐして、幸せそうだ。見た目、寡黙なおっさんが黙って飯を食っているだけの光景だが、このゴローさん、食べながら脳内で実に饒舌に食べる喜びを述べている。

 そんで、

「いかにこの食材のポテンシャルを引き出すか」

に全力を注ぐんだな。

 まずは王道の食べ方。落ち着いてきたら、副菜と混ぜたり、違う調味料を試したりして味変を楽しむ。

 でまたよく食べるんだ。この健啖ぶりは羨ましい。演じる松重さんは実は小食で、孤独のグルメの撮影日は前日から飯抜きで備えるそうな。

 これだけ味わって、楽しんで、しかもお腹いっぱい食べてもらえたら、料理を提供するお店側としても、料理人冥利に尽きるだろうと思う。

 うわーこんな料理を出す店があるのか、へえー初めて見た、美味しそうだな……等々、視聴している側としても感想が尽きない。



 この、「寡黙なおっさんが黙って飯を食う」だけのドラマが、ここまで高く評価されている理由の一つには、松重さんの食べ方が非常に綺麗、という点が挙げられるだろう。

「食べ方」って大事じゃないですか。その人の育ちというか、素養というか、そんなものが出ますよね。

 松重ゴローさんは、食事の最初に必ず箸を持って手を合わせ、

「いただきます」

 と言う。

 で、もりもり飯を食うんだけど、がっついてないし、男らしいんだけども汚らしくない。

 箸さばきも美しい。



 あと、ゴローさん、決して孤独な人ではない。友達も仲間もいるんだけども、このドラマでは、誰かと会食するシーンは描かれない。

 徹頭徹尾、ゴローさんは一人で飯を食う。

 それが潔く、私のようなお一人様慣れした者から見ても共感できるポイントかもしれない。




 余談だが、私もかつてゴローさんと同じような生活をしていたことがある。

 ある地域を担当する外回りの営業だったんですね。朝から出かけて、お昼は大抵、取引先の近くでとることになる。

 担当地域が広かったので、色んな場所に行ったし、その土地の美味しい店を覚えたりもした。

孤独のグルメ」を見ていると、その頃の記憶が蘇ってきて、懐かしさを感じる。

 ただ、私は即断即決の人間で、店を決めて入ったなら食べるものに迷うことはほとんどない。

 直観とフィーリングで(今日はこれ)と決めるのに、1分とかからない。

 なので、メニューを睨んであれやこれや思案して迷うゴローさんを見てると、

「さっさと決めえや」

と歯がゆい気持ちになったりもする。笑




 テレビ東京って、ホント、ドラマの作り方がうまいというか、センスがあると思う。

 このドラマも多分、予算てそれほど潤沢じゃなかったんじゃないかな? でも、ちゃんと面白いドラマに仕上げている。

 各場面で決まって流れるBGMも楽しいんですよね。ゴローさんが料理と向き合うときは、ちょっと合戦ぽい雰囲気の打楽器音が響くし。

 エンディングの、

~ゴロー♪ ゴロー♪ い・の・が・し・ら♬ Fooo♫

 みたいなテーマ音楽も、耳について離れない。

 料理が紹介されるとき、下にちょっとしたキャプションがついているんだけど、毎回、

「どんな味だか全然分かんない」

んですよ。

 さっき言ったSeason7第一話のロースかつなんか、

「かぶりつけ! そして震えろ!」

 だし、他にも

「酒のみには堪らない!」

とか、

「滅多におめにかかれない!」

と稀少性を訴えたり、

「味は虹色 レインボー!」

てよく分かんない例えになっちゃったり。

 味は分からない。分からないが、喜びと興奮は伝わる。

(それ要る………?)

て思ってたけど、「孤独のグルメ」的にはこれで正解なんだろう。

 ともかく、全編を通して

「楽しい」

「美味しそう」

「癒される」

 の三つ巴。

 なるほどなあ、こりゃハマる人がたくさんいるのも頷ける、と今更思わされたことでした。




 そんで、アレですね。「孤独のグルメ」の成功を見て、同じようなドラマがめっちゃ作られてるんですってね?

 たまたまこないだ、そういうドラマを見た。主演の演者さん、私が好きな役者だったけど、悪いが全然あかんかった。

 だけど、そのお陰ではっきりと分かった。

 やはり、「孤独のグルメ」は別格だ。

 主演の松重豊の演技力と品格、制作側の演出、何もかもがかっちりとハマっている。

 

「おっさんが飯を食っているだけのドラマ」と、何度も書いたけれども、このドラマを見ていると、人が美味しそうにものを食べている光景というのは、なんと平和で豊かなのだろうか、と気づかされる。

 ゴローさんが街でごはんを食べている限り、日本は平和だ、という安心感すらある。

 




 私がアマプラでハマり始めたのを察してくれたかのように、新たにSeason9の放送が始まった。

 善哉。

 ゴローさん、ちゃんとマスクをつけている。お店に入ったら手の消毒も欠かさない。

 コロナだってドラマは作れるじゃないか、ということも示してくれていて、ますますテレ東さんの好感度が爆上がり。




 今さらですが、ハマりました。

 未見の方いらっしゃいましたら、是非。

おっさんずラブ第四話⑥ 春田家の食卓②

 この場面の肝はここからだ。



 蝶子さんからの宣戦布告にビビる春田に、「本気じゃないと思いますよ」とアドバイスしてあげる牧くん。

 でもそれだけでなく、

「まあ、ただ…」

と付け足さずにはいられなかった。




「春田さんも部長に対して、曖昧な態度を取ってるのがよくないんです」

 すぱっと言ってのける牧。

 これはもう、ずっと言いたかったことなんじゃないだろうか。部長と春田のやり取りを見ていて。

 この指摘、春田にとっては心外だった。

「曖昧? オレはっきりしてるよ気持ちは。ブレてねぇもん」

 そうね、確かに。部長に対して気がある素振りとか、焦らしたりとか、そういうことは春田は一切していない。

 春田の中では「曖昧な態度」を取っているつもりは微塵もないのだな。

 でも、

「それを、部長にちゃんと、伝えました?」

 と続けて言われると、春田は返す言葉に困ってしまう。




「つきあう意思はない、恋愛対象としてまずない、って、部長にちゃんと言いました?」

「いや、それは……」

 勢いよく反論しようとして、春田の声は尻すぼみになる。言ってないからね。

 春田には色々言い分があるだろう。相手は上司、きっぱりと断る=波風を立てることに他ならない。部下の立場としては言いにくいですわね。

 しかし、こと恋愛に関しては、牧の言う通り。曖昧はよくない。

 先の展望が見込めないのなら、早めに事実を告げなければならない。

 それが相手のためでもある。



 

 牧と春田の二人が台詞を応酬するこの場面、ダイニングテーブルを挟んで、二人の位置が対称にある。

 視聴者として見る我々は、引いた位置から二人のどちらも同じ距離で感じているんだけど、牧がこの台詞を言う場面で、カメラは牧のバストアップを寄って捉える。その視点の変化とこの台詞とで、視聴者はぐっと牧の心情に引き寄せられることになる。

 なぜなら、

「恋愛対象としてまずない」

のが、牧も同じだからだ。

 春田はロリの巨乳が好きなどストレートの男であって、部長にしても牧にしても、春田の恋の相手にはならない。

 牧のこの台詞に、

「俺は春田さんを好きだけど、春田さんが俺を好きになることはないって、ちゃんと分かってます」

という彼の内心の苦衷が滲み出ているように感じてしまう。




 だから、

「はっきり言わないことは、…優しさでも何でもないですよ」

という台詞が、それはもうぐっと来るというか、

(ああッ牧くん! くぅ~切ねぇ……)

と、一瞬にして胸をかきむしられる思いに捕らわれる。

 そうなんですよ。テンポよく進んでいくストーリーに気を取られて、うっかり忘れがちだけど、ここでの牧くんはまさに

「告白したもののはっきり断られてない」

という、言わば生殺し状態なわけで。

 て言うか、春田が忘れてるんだろうね。春田にすれば、

「ごちゃごちゃ面倒なことは抜きにして、せっかく楽しいんだし、友達として同居生活を続けたい」

というのが本音で、今のところその通りの状態だもんね。

 ごはんもお弁当も作ってくれて、家事もやってくれて、仕事の相談も出来てさ、めちゃくちゃ快適な生活を送れているわけだ。牧くんのお陰で。

「告白を保留にしている」という部分は都合よく忘れてそう。忘れてはいなくても、なんとなーくうやむやにして、(ま、いいか)と思ってそう。

 第四話までの春田は、概ね人に対して素直で正直だけど、そういう繊細な心の襞まで汲み取って気を配る……という細やかさには欠けているキャラとして描かれている。




 林遣都演じる牧凌太は、自分の気持を抑えがちで、我が我がと主張するキャラではない。

 春田とひと悶着あって気まずくても、平気なフリで朝ごはんも作るし、お弁当も作ってしまう。

 春田と会社の先輩後輩として接している場面では、恋心なんか全然出さないんだよね。

 それが、こういう場面ではふっと牧の心の揺らぎが立ち現れる。

 林遣都の演技がうまいなあと思うのは、本当にまったく、わざとらしさがないところだ。

「はっきり言わないことは、」

 とここまでは、対黒澤部長のアドバイスとして強めに言っていたのに、ふと視線を落として、

「……優しさでもなんでもないですよ」

この言い方ね。牧くんの、いつものぶっきらぼうな言い方のようでいて、ごくわずかに、「恋している相手の恋愛対象でない」ことの哀しみというか、「相手が超絶鈍感男で実質生殺し状態」である苦い気持ちとか、そんなようなものが感じ取れる台詞回しだと、私は思う。

 だけど、すぐ体勢を立て直すんだよね。

 春田よりも先に夕食を終えて、すっと立ち上がって食器を運ぼうとする。

 それはもう、普段の冷静な牧の姿で。

 何か言いたいけど言い返せない春田が、悔し紛れに箸でちょっかいを出して、牧の茶碗をちょりんちょりんと鳴らす(行儀悪いね)大人げのなさと対称的だ。

 しかしこの、牧の抑えた気持ちが現れる場面がほんの一瞬であればあるほど、見ている方としては

(あっ……)

と息を飲む思いになって、牧の気持ちに同化し、切なさに見悶えしたくなってしまう。




 さっさと食器をシンクへ運ぶ牧の背中を見つめる春田。

 困ったように口をへの字にして、でも何も言えない。

 その表情も、何とも言えず愛嬌があるんだけども、この時の春田の中では多分、既に牧に対する気持ちが段々と変わってきている時期だと思う。

 だけど、それを春田自身が自覚するには、もう少し時間が必要なのだった。

 

 

 

 あ、そうそう、遣都君、ご結婚おめでとうございます!

 役者同士、お互いの仕事を理解し合えるよいパートナーとなれれば心強いですよね。

 私生活も充実され、今後ますますのご活躍、心よりお祈り申し上げます。