休暇を取って帰省中です。
出立の日から本降りの雨。
故郷も雨に降り込められています。
そして、、、大事に読んでいましたが、読了してしまいました。。。
十二国記の新刊、
ハッピーな話じゃないのは分かっていたし、続きがあるのも知らされていたから、出来るだけ引き延ばして読もうと思っていたんですが、やっぱり駄目ですね。
1巻を読み終わるなり2巻に手が伸びて、2巻中盤では
「……なんだと?」
とむくっと起き上がり(寝転がって読んでいた)、そこからはもう呼吸も忘れる勢いで最後まで読んでしまった。
こ……ここで「続く」は辛いわ……orz
(この先戴はどうなるんだ……)
とずっと悶々としていた苦悩、18年ぶりの新刊を読んでも全然解消されてない……
いや、うん、簡単に解決するわけないのは分かっていたけど、でも……!!
※未読の方へ簡単な紹介となるのはこちら
しかし、私、これまでも度々言及しているけれども、読書や映画や観劇に求めるのは「娯楽性」であって、辛気臭いもの、陰鬱なもの、ドロドロしたものはあまり好まないのですよね。
映画だって、一番最初のスーパーマンみたいな、能天気でスーパーヒーローが大活躍して最後は文句なしのハッピーエンド!!というタイプが大好き。
深く考えさせられるものも面白いけど、出来ればラストはハッピーに終わって欲しい、という願望が強い。
その私が、本作を最初から置くことが出来なかった。
描かれるのは、王と麒麟を失って衰退した戴国、泰麒は戻るものの、泰王驍宗は行方不明のまま。国の衰亡ぶりは激しく、民は疲弊している。
そしてこれから冬が来る。戴の冬は殊の外厳しく、早く国を立て直して備えをしないとどんどん民を失うことになる。
「ハッピー」とは程遠いし、はっきり言って「辛気くさい」のだけれど、それでも読み進めるのを止められない。
なぜって?
それはもちろん、面白いからだ。
陰鬱で陰惨な物語を描いてなお、ハッピーエンド好きの私に本を置かせないほど、小野不由美の筆力が圧倒的だからだ。
このシリーズの魅力は多々あるけれど、「文章力」はまず最初に挙げられるべきだと思う。
十二国は中国の神話を基にしているだけあって、文章は漢字が多い。そして漢語が多用されている。漢語を使うと、ひとつの単語が2音、3音、4音となり、文章にしたとき力強いリズムが生まれる。日本人の好きな五七調に自然となる場合もよくある。
彼女はわずかに身を震わせた。染み入るように抜ける涼気が肌寒かった。見上げれば、晴れ渡った夕空は色濃く、山際には藍が滲んでいる。空は昨日より遠ざかったように思えた。高くなったぶんだけ、季節は去っていこうとしている。紫紺の色が濃くなったぶん、今日が去っていこうとしているように。(13頁より抜粋)
こういう文章は、音読すると、非常にテンポよく読むことが出来、気持ち良い。頭の中で再現しながら黙読するにしても、このリズム感が次第に浸透してきて、次へ、次へと読み進むスピードが加速していく。
そして、「涼気」「山際」「藍」「紫紺」といった、五感を伴う言葉と、その意を表す漢字とが結びついて、独特の風景が脳裏に広がる仕掛けになっている。
表意文字である漢字と、和語と漢語から成る日本語の持つ味わいを、じっくり鑑賞しつつ文章を読むことで、物語が体内に入っていく。
あるいは、読む人を選ぶ文章なのかもしれない。私は子供の頃からともかく本の虫で、漢字が多く、漢語が多く、文章が長ければ長いほど、物語が長ければ長いほど喜ぶという、本読みの変態だった。特に高校で漢詩を習って以降は、しばらく漢詩に耽溺したくらい、「漢語」が大好きな質だ。
ちょっと読みにくいけど、その分歯ごたえがあって、咀嚼しがいがあるんですよね。漢語混じりの文章って。
出来れば日常会話でも、「つまり」よりは「畢竟」(ひっきょう)と言いたいし、ちょっと豪華な晩御飯は「ディナー」よりも「晩餐」がしっくりくる。
もちろんその場の空気に合わせて言葉をチョイスしてますけどね。笑
ところが、十二国記シリーズの人気ぶりは、この作品の支持層がそんなマニアックな変態ばかりではないことを示している。
最初はホワイトハートというライトノベルのレーベルから出された本作、その後講談社の普通の文庫として再刊され、さらに今は新潮文庫から出ている、という異色のなりゆきでも知られる。
読者の年代も様々だし、若いファンも少なくない。これまでライトノベルを愛読してきた層も取り込んで、ますますファン層は拡大しているようだ。
やはり、魅力的な文章と、人々を虜にする世界観が、たくさんの人を惹きつけてやまないのだと思う。
18年ぶりの新刊でも、筆力はまったく衰えておらず、十二国の世界観も以前のままだった。
善哉。
さて、苦難続きと見える戴だが、希望が差していないわけではない。
麒麟は王を選定した段階で成獣となり、見た目の成長が止まる。以前の泰麒が愛らしかっただけに、蓬莱(日本)へ流されて成長してしまったのをやや惜しいと思っていたが、この成長は戴のために必要だったことが本作で明かされる。生まれ国とは言え外つ国である日本であれだけの辛酸をなめたからこそ、泰麒は仁獣麒麟でありながら、冷静沈着で二手も三手も先を読むしたたかさを身に着けることが出来たのではないか。八方塞がりの状況を打開する大胆な策を思いつく明晰さと、それを誰にも相談せず、たった一人で行動に移す胆力も。
安全な慶国を出て戴に戻ってきた泰麒の選択は正しかった。渦中へ飛び込むことで、初めて物事は動くものだ。現に、泰麒と李斎は様々な分野の能力を持つ民と出会い、戴で何が起きているのかが徐々に明らかになってきている。
そう、この流れ、覚えがある。慶王赤子となった陽子が自らが治めるはずの新王朝で受けた洗礼とよく似ている。
後あれだ、延王と延麒が語る、雁国の昔話。
いずれも、志を持つキャラクターが自らの意思で動き、人と出会い、その出会いが偶然を呼んで、もうどうにもならないのではないかと思われた危機的状況を逆転することで、物語の未来が明るく開けたのだった。
恭国国王珠晶の昇山を描いた「図南の翼」も、その構図は変わりない。
戴でも同じように、苦難の果て、明るく輝く泰麒の笑顔が見られると信じたい。
本作はカテゴリーとしては「異世界ファンタジー」ということになるのだろうが、ミステリ&サスペンスの要素も多いに持っている。
そして小野不由美は、一見関係ないバラバラな情景を描写しながら、点と点を繋げて線を描き、それが次第に大きな潮流となっていく様を書くのがうまい作家だ。
小野さんは異能の作家だと私は思っているのだけれど、ホラーを書いても天下一品なんですよ。十二国記シリーズのひとつに「魔性の子」という作品があるのですが、これ、ファンタジーと言うよりはホラーと言っていいと思う。そして怖い。
十二国記のファンとしては外せない作品ではあるのだが、そうでなければ、私は手に取らないタイプの本でした。
さすが「屍鬼」の作者。(屍鬼も超面白いです。ホラー苦手な私も好き)
他の作品を読んでいると、どうも、ホラーの方が得意な人なのかな、という気がする。
その陰りが、十二国シリーズではくっきりと際立って、光と影の陰影のコントラスト鮮やかな情景が目の前に浮かぶ。
というわけで、楽しみにしていた新刊を読み終わったにしては、悶々として心の内が晴れないのですが(笑)、来月の続編をじっといい子で待つことにします。
戴の行く末を知るまでは死ねない。