おっさんずラブが好き!

ドラマ「おっさんずラブ」の細かすぎるレビューブログ。OLの深い沼にハマって当分正気に戻れません。ほぼおっさんずラブの話題しかないかもしれない。ネタはバレまくりなのでご注意を。

カラ兄と格闘!!

 無事帰って参りました。

 休暇の前よりもひんやりして、あの香りがどこからともなく漂っていた。

 そう、金木犀です。

 

 

 ……で、タイミングがアレなので何となく……( ´:ω:` ) ……という気分になりまして、しんみりした記事を書いていたのですが、なんかちょっとまた暑さがぶり返しましたね。笑

 今年の秋はなかなか来渋っておるな!

 

 というわけで、別の話題を。

 

 実家に帰ると、母の蔵書が色々あって、手慰みに手を出してみるんですが、どうしても読めない本が数冊あった。

 そのうちのひとつがドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」。

 

 

 文学史に載っていようと、名作と名高かろうと、私が読む本を選ぶ理由はシンプルだ。

「面白そうか、そうでないか」「読みたいか、読みたくないか」

 他の理由はない。

 だって本なんて全部娯楽だもん。読んで恥ずかしい本もなければ、読んでおかないと恥ずかしい本なんてものもない。

 「今昔物語」は日本文学史に登場する古典で、中学の国語の教科書にも載ってたけど、原典読んでみると、んまあ下世話な下ネタが多いのなんの。

 字が読み書き出来たんだから、書いた人も読んだ人も知識層であるはずだけど、まあ、人間の興味の向く方向なんて昔から変わらんのよな……と、半ば呆れつつも、妙に納得した思い出。

 

 

 ところが「カラマーゾフの兄弟」は、なんか無視できなかったんですよね。。。

 周りの親しい人で、読了している人が何人かいた。「面白かったよ」と言う。

 そして、私が好きでエッセイも小説もよく読む村上春樹が、カラ兄推しだったんですよね。不定期で開催するホームページでも、「カラ兄読了しました!」という報告が多々見られ、うーむ、そうか、こんなにたくさんの人が読了に挑んでるのか…と、ちょっと高めの登山に挑む前の登山初心者の気分になったり。

 

 

 でもねえ、ロシア文学って、大体クソ長い長文じゃないですか。私、自分の文章を長い、長いと言ってますが、本気の「長文業界」においては全然、まったくもって長くないことは自覚しています。

 「罪と罰」は面白く読んだけど、主人公ラスコーリニコフという男はまあ実によく喋るのだ。私の好きな2段組みのページ構成で、2ページ繰っても3ページ繰ってもまーだ喋っとる。しかも独白だよ。相手がないのに一人でそれだけ喋るんだよ。(大丈夫か…?)と心配になるが、全然大丈夫じゃないから「罪と罰」という小説になっているのだった。

 それでもまだ、「罪と罰」は登場人物がそれほど多くなくて、物語もシンプルだから読めた。

 「カラマーゾフの兄弟」はその点、登場人物からしてめちゃくちゃ多い。

 それも、家族だったり親族だったりするから名前が似通っておる。

 まず登場するのがカラマーゾフ家の父、フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフ

 長男がドミートリイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ

 次男がイワン・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ

 三男がアレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ

 この辺で大概頭の中がぐるぐるしてくるんだけど、文中でなんの断りもなく突如愛称が登場するんですよね。

 マイケルがマイクとか、エリザベスがベスとかなら、説明がなくとも分かるじゃないですか。

 が、ロシア語は英語とは違う略し方をするので、

 ドミートリイ→ミーチャ

 イワン→ワーニャ

 アレクセイ→アリョーシャ

 とかになるんだ。

(えーと、長男がドミートリイだから…)と手探りで読んでて、いきなり「そのときミーチャは」とかになるから、(ええっ誰!?)てなる。

 ややこしい人がもう一人いて、いや一人どころじゃなくややこしい人ばかりうじゃうじゃ出てくるお話なんだけど、ほんの序盤の話ね。

 ピョートル・アレクサンドロヴィッチ・ミウーソフという、カラマーゾフ家の親戚のおじさんなんですが、一番最後の「ミウーソフ」がこの人一人だけなので、「ミウーソフ」で覚えるじゃないですか。で、文中でも「ミウーソフ」と記されているんですよね。

 ところが、このカラマーゾフ家のパパ、フョードル・パーブロ某は彼を

「ピョートル・アレクサンドロヴィッチ」

と呼ぶんですよ! 最後の「ミウーソフ」を言わないんですよこの男は! ちゃんと地の文にならって「ミウーソフ」って呼べや。だからダメなんだおまいは。

 で、このフョードル父ちゃんのお陰で

 (えっえっどこの何ヴィッチだっけ??)

てなって、またしてもページを繰って前に戻らなければならぬ羽目に。

 

 

 アガサ・クリスティとかエラリー・クイーンとか、登場人物が死ぬほど多い推理小説を読んで育ったお陰で、ややこしい名前のキャラを覚えるの、そこそこ自信があったんだけども、「カラ兄」は名前を覚えるのに

「ちぇぇーーい!!」

とちゃぶ台を引っ繰り返したくなること多々あり。1ページにつき3回くらいは引っ繰り返したくなってました。

 そんで、苦労して名前覚えたところで、ドストエフスキーの書く小説の登場人物って、大概多血質で、リアクションがオーバーで、根っからのろくでなしで、人に迷惑をかけても平然としてるし、ウソをつくし、それを糊塗するのにことさら大げさな言い回しで歯の浮くような長台詞を滔々と述べる。その台詞がクソほど長い。

 さらに、行間に作者も登場する。そして作者の説明(…というか言い訳?)も長い上、その説明があったところで大して分かりやすくなってはいない。

(今ここでエネルギーを費やして読む必要性というものがあるだろうか…?)

と自分に問い直してみて、

(……いや、ない)

と一度は結論が出た。

 いや、一度ではないな。二度も三度も結論は出たんだけど、それでも時間が経つと、喉元過ぎれば…じゃないけど、なんかまたそわそわと(……カラ兄読んでみようかな…)てなる。笑

 なんなんだろうな、この気持ち。

 

 

 でですね、せっかくなんでこの記事書こうと思って、練っているうちに、なんかようやく人物の名前がちゃんと頭に入って、初めて100ページ以上進みました。

 あーこの何とか・何とかヴィッチ・何とかーゾフの集団の中だと「ゾシマ」という短い名前の持ち主というだけでめっちゃいい人に思えるわー。

 で、物語のなりゆきも(うんうん、面白くなってきたかも)というところでタイムオーバー。

 本を残して、帰途についたというわけでした。

 

 さわりが理解出来たので、図書館にでも行って続きを借りてこようと思います。

 10トライ目くらいにしてようやく読了の糸口がつかめた感じ。

 

 

 あ、それでですね、村上春樹を私は昔から好きなんだけど、彼こそ読む人を超選ぶ作家だと思う。

 あの独特の文体と暗喩に満ちた物語、決して万人受けする作家ではないのに、なんだってこんなにもてはやされているのか、非常に不思議。

 1Q84だったかな、新刊を山積みにして売っていたとき、

「あ、おとうさーん、コレよ、あの話題の本! これ買おう」

と言って購入した女性がいて、村上春樹ファンの私には驚愕の光景だった。

 いやいやいや、「あの話題の本」くらいな動機で買って読んで分かるような代物じゃないと思うけども……と顎が落ちそうになりつつ、じっと堪えてレジ業務に専念しました。

 分かるからエライとか、分からないから鈍いとかそういうことじゃなくて、読書って本当に個人的でニッチな趣味の部分でする行為だと思うのでね。

 世の中にはいろんな人がいるなあ、と思わされた出来事でした。

 ちなみに私は「1Q84」は全然好みじゃなくて、借りて読んだけど結局買いませんでした。

 

 村上さんて、多分本当に「自分の書きたいことを書きたいように書いている」作家だと思うんだけど、何故だか昔から「大衆受けを狙っている」ように思われたり、勝手に祭り上げられたり、「ノーベル文学賞候補!」と過剰に騒ぎ立てられたりするキライがある。

 私は、よく読むけど別に大ファンというほどの熱量じゃないし、ごくライトなファンだと思うんだけど、国内の作家が彼に向ける敵意がちょっと理解できなくて、ドン引きしたりする。島田雅彦なんか、「国民的偽善作家」って言ってたよ。しかも、そこに村上春樹を持ちだす必要性がまったくない文脈で。

 なんか、不思議な立ち位置の作家さんです。

 

 

 沼のざわめきは相変わらずで、公式砲が沼に打ち込む新情報が色んなところで波紋を広げている観がありますが、それについてはまた次項。