というタイトルの記事を書こうと、こないだから考えていたのだった。
NHKで「ダビンチ・ミステリー」という特集を見たのですね。
万能の天才という異名は知っていて、絵画だけでなく多方面にわたって非凡な才能を発揮した人であることは承知していた。
けれども、今回AIが一部を解き明かしたダ・ヴィンチの思考が凄すぎて、(いやもうこれ……変態の極みじゃね?)と打ち震えたのだった。
「〇〇すぎて震える」という表現、あるじゃないですか。アレ、会いたすぎたり会えなさすぎたりしてよく震える某歌手の歌詞から派生した表現なんですかね? よく分からんけど。
でも、比喩じゃなく、揶揄でもなく、本当に心底震える思いだったんです。
いやーだってさ……ドローンがない時期に、「上空から見た地図を正確に描く」って、凄すぎへん…?
て言うかそもそもその時代って、「上空から見た地図そのものがなかった」んですよ。そりゃそうだよね、飛行機なんてないんだから、上から見てどうなってるのかなんて、誰も知りようがない。
なのに、ダ・ヴィンチは考えたんですね。
(この土地は上から見たら一体どう見えるのだ?)
と。
そして、それを自ら(作ろう)と思ったのだね。
どうやって作ったか。
測ったんですよ。測るものがないから、その道具も自分で作ったんですよ。
前例がないもののこととて、きっと何度も失敗しただろう。でも、彼はどうしてもそれをやり遂げたかったのだ。
そして、遂に描きあげた。
その地図は、衛星写真と合わせてみると、ピタリと一致する。
最初はもしかして、鳥への興味だったんだろうか。
鳥の姿を描くうち、彼らの目に映る世界を見てみたい、と思うようになったのかもしれない。
そうして、俯瞰で描かれた地図が誕生したとしたら、その経緯は理解できる。
そこから、
「自分も空を飛んでみたい」
と感じたのだとしたら、それも分かる。
でも、
「だから飛ぶための道具を作ろう」
と飛行機の設計をしてしまうあたりになると、(……すげーな…)となって、私の理解をやや超える。
レオナルドが描いた人体解剖図があるのは知っていたし、見たこともある。
人物を正確に描くためだと思っていたけど、どうやらそれだけではなかったようだ。
現代の医師が見ても感嘆するほど精確に描かれた心臓の図。それは多分、「見たままに描く」ことに淫していないと出来ない作業ではなかろうか。
ただ単に「夢中になる」「没頭する」というレベルを超えて、「淫している」ね。
そして心臓の内部を描いた絵には、肉眼では確認できない何かが存在する。
それは、死んだ臓器では観察し得ない「血流」の図。
観察によって、レオナルドは心臓に「弁」があることを知っていた。
普段から川や水の流れをじっと見て、水がどういう動きをするのか、彼は知悉していたらしい。
となると恐らく、(ここに弁があるということは、液体の流れがこうなって…)と、思索と推理によって、血液の流れの真実にたどり着いたのだな。
ちなみに、心臓内部のその血流がはっきりと解明されたのは、20世紀に入ってからのことだ。
この「万能の天才」が、幼い頃満たされた家庭環境を与えられず、ろくな教育を受けさせてもらえなかったことは、この番組で初めて知った。
え、教育を受けてなくてアレなの…?
ラテン語は独学で勉強したの…?
「水はすべての生命体の成長の養分であり体液である」
「時とともに万物は変化してゆく」
これらの言葉が、学校教育を受けていない人が独自のやり方で世界の真理に挑み、辿り着いた結果出てきたものだという事実に震える。
いやもう、マジで……すごない…?(←最近のお気に入り)
これこそ、震えていい凄さでしょ??
ダ・ヴィンチが才能を発揮した分野は数知れずあって、wikiには「解剖学・生理学・動植物学・天文学・気象学・地質学・物理学」云々、延々と並んでいる。キリがないから全部記載しませんが。
自分を取り巻くものすべてが、彼の興味の対象だったんだろうな。
もちろん飛びぬけて頭がよかったには違いないけど、彼が他の人と違ったのは、「知りたい」という情熱が尋常じゃなかったことだと思う。
目の前の現象がなぜ起こるのか、鳥はなぜ空を飛べるのか、鳥の視点から自分の村がどう見えるのか、どうやったら鳥のように飛べるのか。
なぜ雨が降るのか、川の水はどこへ流れて、最終的にどうなるのか。
人の目はなぜものを見ることが出来るのか、目の構造はどうなっているのか。
教えてくれる先達はなかった。(じゃあ、自分で調べよう)と思ったんだろうな。そして、知るための手段を発明するところから初めて、コツコツとミステリーを解き明かしていったのだ。
レオナルドの解剖図には眼球も描かれていて、水晶体がレンズとなって像を結ぶ仕組みを解明していたことも分かり、これまた震えました。
知ることが「好き」というレベルじゃない。
もう一度書くけど、知るということに「淫している」のだと思う。こういう人は。
他人からどう見られるかとか、没頭することでどうなるかとか、そういうことをすべておいて、自身が欲するままに行動する並々ならぬ情熱ね。
「天才」と呼ばれる人たちには、すべてこの変態性があったと言っていいのかもしれない。
いや、「天才=変態」でもう差支えなかろう。
異論は認める。
あ、でも、「おっさんずラブ」というドラマにドはまりしたまま、1年半以上延々と「おっさんずラブ」関連の長文記事を書き続けている私、何度も公言しているように「ド変態」だと自覚しています。
が、「天才すなわち変態」ではあっても、「変態すなわち天才」は成り立ちませんね、残念ながら。ただ単に変態なだけ、というタイヘンなヘンタイ、たくさんいるじゃないですか。ねえ。
このブログを続けててつくづく思うのが、(あー文章ヘタだなー自分。。)ということだ。本当に、もっとちゃんと文章修業しとけばよかった。
もしかすると人類史上最高の天才と言っても過言ではないかもしれないダ・ヴィンチと、文字通り浅学菲才の我が身を同列に語ること自体烏滸の沙汰ではあるが、「変態」という共通点があることをひっそり喜びつつ、せめて向上心は持ち続けようと思います。