前の記事に回答を寄せて下さった方々、どうもありがとうございました。
お陰で、皆様が仰ることがやっと私にも腑に落ちました!
「言葉にならないモヤモヤを言葉にしてあった」
これを読んで、(! そういうことか…!)と分かった。
「言葉にならないモヤモヤを言葉にする」、それこそ、私がここでいつもしていることだからだ。
ここでというか、日常で常に行っている、と言ってもいいと思います。
前も書いたけど、私は部屋の中が散らかってるのは平気だけど、頭の中がとっ散らかってるのは好きじゃない。
「なんとなくモヤッとする」とか、「あれ、私機嫌いいな? なんでだろう?」と思うと、「何故」を究明したくなるんですね。
特に、ネガティブな感情はそのままにしておきたくない。
何が引っかかっているのか、明らかにして、とっとと「未決箱」から「処理済」に移し替えたいのだ。
それには「書く」のが一番有効だ、というのは、昔から分かっていた。
日記を書き始めたのは5歳のとき。そこから、大人になってからもずーっと、日記を書く習慣があった。
波立つ自分の感情をそのままに書きつけることで、心の整理がついて、自分が何に傷ついたのか、何故怒っているのか、分かるようになる。
分かると、次へ進めるのです。
どうも、人は「分からない」という状態に弱いようだ。
上司が何故迫ってくるのか分からないから、第一話で武蔵に追いかけられた春田は恐怖を覚えたし、何故あのタイミングであんな続編発表になったかサッパリ理解できなかったから、OL沼住民の多くが不安と混乱に陥ったのだと思う。
ネガティブな感情って、放っとくと「腐る」んですよね。
モヤモヤはいつしか鬱屈になり、黒い塊と化す。腐臭を放ち、言動や表情に影響を与え始める。そうなってからだと、解消するにもエネルギーが要るし、自分でどうにもならなくなったりする。
SNSでずーっとネガティブなコメント続けてる人とか、見たことないですか?
あれ、本人だってやりたくてやってるんじゃないと思う。苦しくてどうしようもないけど、もう自分では変えられなくなっているのかもしれない。
そうなる前に、ネガティブな感情は解消しておく方がいいのです。
自分が何に引っかかっているのか、どういう状態なら気が済んだのか、それを自分で把握できると、怒りや不安て割と収まることが多い。すーっと消えるというか、じめじめ鬱陶しいモヤモヤに苦しめられることはなくなる。少なくとも私はそう。
そんで、私が人生で何に一番重きを置いているかと言うと、
「常に自由でいる」
ことなんですね。て言うとちょっとカッコイイけど。笑 でもホント。
自由でいるということは、自分の中にも、捉われるものが何もない、ということだ。
自分の操縦桿は自分で握っておきたい、と言いましょうか。
だから、怒りや不安などのネガティブな感情は、大きく育つ前に摘んでおきたい。
一番扱いが厄介な「嫉妬」は、火がつくと本当に手に負えないので、スイッチを常にオフにしておくようにしてます。
私の文章を「冷静」「落ち着いている」と評してくださった皆さん、ありがとうございます。
が、平和だったこの沼に激震が走った927、私だって怒ってました。傷つかないように自己防衛していたけど、多分傷ついてもいたと思う。
だから、これまでのことを振り返って、じっと観察して、分析し直した。
そして書いたのが以下の記事。
ここまで書いて、いったん落ち着いた。
でも、ツイッターは荒れたままでした。いつもならシャットアウトするところだけど、今回ばかりは荒れているのも分かるから、出来なかったんですよね。
927以前は、ここへは基本的にポジティブな記事しか載せていなかったと思います。私が好きに書いているブログだけど、読む人に楽しんでもらえる記事を載せておきたかったし。
荒れている沼を見かねて、初めて自分の意見を表明した記事らしきものを書いたのが以下。
このときは若干、炎上覚悟でした。
なぜここまで皆が悲しむのかと言えば、「『おっさんずラブ』なのに牧凌太がいなくなってしまった」これに尽きると思いました。
そして、理由を納得したつもりだった私自身の中にも、まだ牧の不在を惜しむ気持ちがあるのに気づいた。
そして書いたのがこれ。
これらの記事は、普段の私なら投稿していなかった内容だ。
だけどこのときは、書かずにいられなかったんですよね。いつもなら脳内だけで済ませていた整理作業を、ここで公開しながらやっていた、というか。
そういう視点で見てみると、収録した映像を編集して放送するところ、このときは割と生放送だった、みたいな感じ。
それにしても、いっぱい書いたね!笑
ここまで書きに書かないと、心の整理がつかなかったんだな。私。
今見ると気の毒で、
「よーし、よく頑張った! 疲れたよね、お疲れ様」
と自分にヨシヨシヾ(・ω・`)してあげたくなる。
で、私が自分自身の脳内を整理するために行っていた「言語化」作業が、図らずも、読み手の皆さんにとっても脳内整理になった、ということなんでしょうか。
どうも、皆さんの書き込みをまとめると、そういうことのようです。
これらの記事の中で、私は再三、「悲しい感情はそのままでいい」みたいなことを書いているけど、これは寄り添って書いているというよりは、ネガティブな感情を抱いたときには本当に、そうするのが一番効くからだ。
悲しむ自分、怒ってしまう自分を否定してしまうと、それはそれで引きずるというか、長引くんですよ、かえって。だって、感じてしまうものは仕方ないですやん。
そこは、自分を肯定してあげて、甘やかす方がいい(興味がある方は一度「インナーチャイルド」というワードでググってみてください)。
我々みんな、いわゆる「いい年の大人」だけど、外見から心の奥の芯の方までぜーんぶ隙のない大人なんていないんだと思う。ワガママで、自分の意のままにならないことに対して「ヤダヤダ!!」と駄々をこねてる小さい子の人格、心の奥底にひそんでたりするんですよ。
その子に対しては、
「そうだよね、ヤダよね。分かるよ。そのままそう感じてな」
と慰撫してあげる方がいい。だって子供だから。笑
その上で、「どうすれば早く楽になるか」の手立てを、大人として考えればいいと思う。
これらの記事を書くことで、私の中で、続編発表にまつわる諸々に対する整理がついた。
なので、次の段階に進んだんですね。
それは、「公式との訣別」でした。
それを表明したのがこの記事。
(以下抜粋)
ドラマは面白いけど、もう撮影裏話とか、追っかけようとは思わないので、雑誌は買わない。きじPが何を言おうともう興味ない。
「おっさんずラブ」を生み出してくれたことに対しては感謝の念しかないけれど、同時に、ファンをここまで手酷く裏切ったことに関しては、正直怒りを消すことが出来ない。
あれだけ大好きで信頼していた公式さんだ。私だって嫌いになりたくなかった。出来るだけ、自分の気持ちをなだめようなだめようとしてきたけど、その努力は途中で放棄しました。
だって、エンタメだよ? 私たちは楽しんで鑑賞する側の視聴者だよ?
なぜに歯を食いしばって辛い気持ちに蓋をしてまで公式の擁護をせねばならんのだ。
ここまでの配慮のなさ、これはもう、「おっさんずラブ」を愛して育ててきたファンを蔑ろにしている、と断じていい、と判断しました。
私はもう「おっさんずラブ」公式を信頼しない。
そこだけはもう、私の中で覆らないと思います。
こうして、私の中で肚が決まった。
「未決箱」から「処理済」への移動も完了。
このように脳内で整理整頓がつくと、「おっさんずラブ」ドラマ本編の素晴らしさが、この度の騒動で何も傷ついていないことにも気づく余裕が生まれる。
「それはそれとして、やっぱりおっさんずラブは大好きだー!!」
と愛を取り戻して、また元気にレビュー記事の更新を始めたわけですね。
皆さまへの問いかけは、結局自分自身を振り返ることに繋がって、とても面白い作業でした。
ここに来てこのブログが進化を遂げているようで、毎日ワクワクしています。
改めまして、コメントをお寄せいただいた皆さま、ありがとうございました。
こうして見ると、嫌いなものの筆頭に「めんどくさいもの」を挙げていた私、本当に「いかにめんどくさくなく生きるか」に全力を注いでいるなあ。。
私がなぜこういう生き方になったかも色々振り返ることが出来たのですが、それについてはまた、機会があれば書きたいと思います。