「セレンディピティ」という言葉がある。
元は「ラッキーな偶然」というほどの意味だけど、文脈によっては、「神様が授けてくれた幸運」というような意味に使われることがある。
田中耕一さんがノーベル賞を受賞したときの研究成果にも、確かこの言葉が出てきたと思う。発光ダイオードもそうだったような。
科学の研究分野では、この言葉をしばしば目にする。どの分野も、研究者は日々必死にしのぎを削っている。どれだけ努力を積み重ねても思うような結果が出ない、そんな日々を何年も続けていて、ある日ふと、「試薬を間違えた」とか「意図せず二つを混ぜてしまった」みたいな偶然が起こる。その結果が成果に結びつく…といったような成り行き。
ただそれは、単なる偶然ではなくて、必死に努力してもがいた者だけが得られる幸運だと、ある科学者のインタビューで読んだ記憶がある。誰だったか忘れちゃったけども。
映画でもドラマでも、制作中の無事やヒットを祈願して参拝するという話、昔からよく耳にする。芸能の神様を祀った神社も少なくない。運勢を上げるために広く知られた芸名を変えてしまう芸能人もいる。およそ芸事に携わる人なら、「芸能の神様」とでも言うべき存在がいると、多分心のどこかで信じているのではなかろうか。
私も思っている。もうずっと前から感じていた。
神さまは演劇や音楽が好きなのではないかと。あるいは、そっち担当の神さまがいるんじゃないかと。
よく出来たドラマは、完成されたパズルに例えられる。脚本、演出、役者の演技、ドラマを盛り上げる音楽。それらがすべて組み合わさって初めて、見る人の前に一枚の絵が現れる。張り巡らされた伏線が回収されて大団円を迎え、物語の未来が主題歌の歌詞とリンクしていたりすると、その絵の複雑さ、練り上げられた色彩の美しさにため息が出る。
けれど多分、どの作品も、紙のパズルのように1mmの隙間もなく出来上がることは滅多にないのだと思う。
人の手が作り出したものは、完全な円に見えても、必ずどこか歪さを残している。それ故の魅力もある。
ところが、歪さをお互いが補完し合う、そのハマり方が完璧すぎて、ほぼ隙間のないパズル絵が出来上がってしまうことが、ごく稀だけどある。
「おっさんずラブ」という作品、優れたドラマに必要なものはすべて揃っていた。
時代を切り取る企画と、その企画を実行に移す力を持ったプロデューサー。
面白く、遊びの部分を絶妙に残した脚本。
脚本のエッセンスを余さず画面に映し出す演出。
満を持して主役に抜擢された田中圭。
実力と情熱を併せ持ったキャスト陣。
センス溢れるSNS担当。
ドラマの世界観を作り込む職人技のスタッフたち。
そして音楽。
通りがかった神さまが、このドラマを気に入って、祝福でもしてくれたのだろうか。
それがもしかすると、パズルのラストピースを埋めてくれたのかもしれない。
あの春、「おっさんずラブ」最終話の美しいラストを迎えたとき、私は(パズルが完成した)と感じたのだった。
私の中のイメージでは、そのパズルは平面ではなく球体で、光を放ちながら回っていた。「おっさんずラブ」の世界の地球儀みたいに。
神さまがパズルのラストピースをはめてくれたのだと思った。
そしてそれは、もしかすると、「セレンディピティ」と呼んでもいいんじゃないかとも。
そうか、ここまで書いてきて、ようやく「おっさんずラブ」というドラマを言い表す言葉が見つかったような気がする。
良いドラマで、名作で、佳作で、傑作だけど、どれもなんかしっくり来ない…というか、(……足らんな)と感じていた。
「祝福されたドラマ」
これだな。
私はキリスト教徒でもないし、特に信仰もないけど、この言い方が今のところ一番しっくり来る。
奇跡が奇跡を呼び、結果的に何万もの人の心を掴んで離さないドラマとなった「おっさんずラブ」。
このドラマと出逢えたことが、私にとっても奇跡だった。
続編発表からこれまで色々あったけど、このドラマがたくさんの人々の心に熱と光を灯したことは事実だ。救われた人も少なくないし、世の中の明度をすこーし上げたことも間違いない。
やっぱり、「おっさんずラブ」がこの世に生まれたことに関しては、感謝しかないですね。
もしも芸能の神さま的な存在がどこかにいるなら、満腔の感謝を捧げたい。
いつかお参りしたいと思います。