前章で、「映像研」は、オタク漫画なのに「オタク」という言葉が出てこない、オタクという概念が消滅した世界なのではないか、という仮説を書いた。
「映像研」の世界にないものは、それだけではない。
高校を舞台にした女子高生たちが主人公なのに、恋愛要素が一切出てこないのだ。
今までジャンルを問わず色んな漫画を読んできたけど、高校生がメインで、恋愛要素がまったくない作品てあったかな?と記憶を辿るに、ぱっと思いつくものがない。
少女漫画化でも恋愛ものが苦手な作家もいて、川原泉なんかその代表格じゃないかと思うけど、で「笑う大天使」は女子高生3人が主役でありながら、恋愛要素はほぼないんだけど、でもないことはない。お話中でLoveには至らないんだけれども、いずれ育つであろう恋の芽のような絆を描いていて、ラストはやはり「結ばれて家庭を作りました」となっている。
思春期から青春期って、恋に興味が出てくるお年頃なので、恋愛がメインに据えられるのは当たり前であって、もちろん受け取る側もそれを娯楽として消費するのがお約束だ。
だけれども、クラス一、あるいは学年一と呼び声の高いイケメン男子と恋に落ちるだとか、勉強は出来ないけど顔は可愛い女の子が主役だとか、そういう作品を数多く読んでいると、次第に「高校(大学)に行けば漫画みたいな恋愛が自然に始まるのだ」という思い込みが生まれることに繋がる。
すると、リアルで恋愛が生まれない人たちは、(全然モテない自分はどこか欠陥があるんじゃないか)と劣等感に苛まれることにもなりかねない。
実際、ファーストキスがいつだとか、初体験がいつだとか、雑誌で特集組まれたりしていた記憶がある。
なんかもうドラマもバラエティも「年ごろの男女は必ず恋愛するものだ」という前提で作られていたような気がする。
それも社会のシステムとして分からないでもないんだけど、やはり、人の価値が「モテ」と「非モテ」に分けられるような風潮は、違うんじゃないかなあ、と思います。
バスケ部の入部人口を劇的に増やしたと言われる「スラムダンク」も、主人公桜木花道は晴子さんに切ない思いを寄せているし、女子からキャーキャー言われる流川楓に嫉妬する。
異色なところだと「寄生獣」なんかがあるけど、やっぱり主人公シンイチは彼女がいて、男女の営みもしっかり出てくるし……
まあでも私が漫画に造詣が深いかと言うと、全然そうではないし、知識も古いので、高校生がメインだけど恋愛要素ゼロだよ!という有名作品もあるのかもしれない。もしそうならご勘弁を。
まあそれはともかく、「映像研」は、メインの3人が、まったく恋バナをしない。恋に発展しそうな相手キャラすら登場しない。
出てくる男子生徒と言えば、ロボ研の部長とか部員とかだけど、完全に脇キャラ。部長はみどりと張る超オタクキャラとして描かれていて、他の役割はない。
恋愛に一番近そうなキャラは、カリスマ読者モデルとして描かれる水崎ツバメということになるだろうが、彼女もまた、男女問わず人気があって、よく握手を求められている場面は描かれるけれども、男子生徒から告白されたとか、プレゼントをもらったとか、今までの漫画だったら確実に出てきそうな描写は一切ない。
「映像研」の世界にないのは、「オタク」の概念だけではなかった。
「モテ」と「非モテ」という区別もない。
少なくとも作中では描かれない。
私が最初に(あれ?)と引っかかったのが、水崎ツバメというキャラの描き方だった。
読モ出身のモデルで、モノレールに乗れば一面ツバメの広告でジャックされているくらいだから、相当美人なのだと予想される。加えて、両親とも俳優で、庶民であるみどりたちとは桁違いのお金持ちであるらしく、途中出てくるツバメの家はプール付きの豪邸だ。
が、みどりたちと金銭感覚の違いを実感する会話は出てくるものの、それが彼女たちの間にヒエラルキーを生むかと言うと、そんなことはない。
みどりが「お年玉をはたいて買った!」というリュックの値段を、ツバメが「10万円くらい?」と予想し、みどりが「いえ、手前どもは庶民ゆえ、2万5千円です」というやり取りがあるんだが、みどりがツバメと自分を比較して特別落ち込むということもないし、ツバメもツバメで「そっか」と飄々としている。
映像研が同好会として始動したあと、ツバメが家から300万円相当のソファを持ってきて、そこがメンバーのくつろぎスペースになるんだけど、みどりが「300万円」という価格に動揺する描写はあっても、ツバメとの境遇の違いに怖気づいたり、萎縮したりする様子もない。
そもそも、みどりやさやかの容貌についても、まったく触れられないのだ(ツバメの可愛さについても誰も何も言わない)。
容姿に関して言及されるのは、ツバメが「金森さんて足長いよね」と金森さやかに言う台詞だけだ。
それに対しても、さやかが特に謙遜するでもなく、「寝る子なので育ちました」と不愛想に答えて終わっている。
つまり「映像研」では、「アニメを制作すること」この一点のみに集中してすべてが描かれ、これまで多くの漫画が描いてきたような、恋愛の胸キュンや、女子同士特有の関係性や、実家の経済状況、学内での人気、容姿の美醜、学業の成績、そういったものが生み出すヒエラルキー等も、一切排している、ということになる。
まあ普通の漫画ならさ、冒頭、浅草みどりにおやつを買ってきた金森さやかが、「お釣りは?」と言われて「手間賃として接収しました」と言った段階で、ケンカになると思うんだよね。でもならない。「まさか私を無賃金で労働させようと思ってたんすか」とさやかに言われて、みどりはしゅんとして「考えがあまかったよ」と譲歩する。
アニ研上映会に行きたいんだけど一人で行けないみどりが、さやかに条件付きで「一緒に行ってほしい」と頼む場面が続くのだが、
「浅草氏って連れション文化圏の人間でしたっけ?」
と、このさやかの台詞が、私がこの作品に刮目した最初の場面となった。
そう、正直言うと、この台詞がこの作品の肝をすべてあらわしていると思ったんだけど、それをどう言葉にしていいか分からなくて、書きだすのに時間がかかったんですよね。
そう! 小学校・中学校と、女子生徒の間には独自の文化が存在する。
そのうちの一つが、「休み時間トイレに一緒に行く」という風習だ。「ね、トイレ行かない?」と声をかけあって女子トイレに赴く、アレが、私にはどうにも理解出来なかった。
だって、生理現象だよ? 人に合わせる必要ある…? しかも一緒に行って、音を気にしながら排泄するって、何の罰ゲームなん???
でもアレ、好きなんですよねー。「女子」の人たち。この手の風習を疑問に思わない人たちは、昼ごはんも一緒に食べようとする。仲良しで、他に用事がないなら一緒に食べればいいと思う。そこに異論はない。でも、何か用事があって「先に食べててね」と言っても、食べずに待ってたりするんだ。
なんで?? なんで待つの?? 一緒に時間を過ごすだけなら、食べ始めを合わせることないじゃん?? 先に食べられたって気を悪くしたりせんよ!!
……でも、こういう人たち、羊のように頑固で、ともかくも「一緒に合わせる」ことに偏執していた。
これは女子特有の性質だと思いますね。そして私はそれが大嫌いだった。
あ、そう言えば、中1ではこの風習に従えという同調圧力が鬱陶しかったけど、中2で一人修業を経たのちに仲良くなった友人たちは、私のこういうところも笑って受け入れてくれる人たちで、「自分たちは一緒に行くけど、朔ちゃんは好きに行きな」というスタンスで、大いに居心地がよくなった。
これを一言で「連れション文化圏」と切って捨てた金森さやか。
(うおッそうそうそうそう! ソレな!!)と、めちゃくちゃ痛快に感じたのでした。
うーむ、私はこの作者をよく知らないけど、この言葉が登場するということは、やはり上に挙げたような「恋愛要素のなさ」「女子間ヒエラルキーの無存在」も、あえてそうしたような気がしますね。
あーだから、「連れション文化圏」を不思議に思わないまま大人になって、例えば旅行に行っても単独行動を出来ないタイプの人は、この作品のよさや痛快さは分からないかもしれませんね。大人になって付き合う相手を選べるようになった今では、そういう人が知り合いにいないので、よく分からないけど。
そうか、ツバメほどのお金持ちで美人の読モでも、全然浮かないこの世界では、人種なんか差別の対象になるわけもないのか。
途中で登場する音響部の百目鬼(どうめき)氏は、見た目が金髪・肌は浅黒く、人種がよく分からなかった。生徒会の口が達者な書記もそう。アフリカ系の血が入っているような容貌だ。でも、誰も特にそれについて言わない。
百目鬼さんは下の名前が「パーカー」と言うそうなので、両親のどちらかが海外ルーツなんでしょうね。でもこのお話には全然関係ないので触れられない。
あとね、「音」ハンティングにみんなで出かける場面があって、百目鬼さんは音響部だから、映像研に協力している立場ではあるんだけど、この3人+百目鬼氏という集団で考えると、「新参者」でもあるわけじゃないですか。
でも、百目鬼氏は水崎ツバメに「水崎さん、その服ウルサイ」とさらっと言うし、言われたツバメも「マジか」とシャカシャカ音がするジャケットを脱ぐ。
上下関係も一切、ほんとーうに一切!ないんですよ。
上下関係と言えば、顧問の先生も、パンチパーマでグラサンかけて自分の私情でしごきまくる……なんていうこともなく、必要なときだけふらっとやってきて、手を差し伸べて、それだけだ。
だから、(なんという自由な世界だろうか)と、私は「映像研」が描く新しさに感動を覚えたのだった。
誰もが対等で、他の余計なものにわずらわされず、ただただ好きなものに打ち込む世界。
「アニメを作る」こと以外の要素は一切排除され、登場人物たちは自分が作り出すアニメ世界の中で生き生きと動き回る。
ものを「創る」とは、なんと自由で、可能性に満ちた作業だろうか。
人間の煩悩のすべてを詰め込んで作られた「有閑倶楽部」のような世界もいい。生徒会メンバーは全員、度外れた金持ちばかりで、頭脳と美貌と身体能力に恵まれ、学内ヒエラルキーのトップに君臨する。あれはあれで、フィクションとして楽しい。
けれど、創造のエネルギーの他一切を排して描かれた「映像研」の世界、新しい上、私は非常に清々しさを感じる。
恋愛も、人間関係のすったもんだも、そんなものなくても、十分面白い作品は作れるということだ。
……ということに、「少女の呪縛」について書いたことで、気づくことが出来たのでした。
「映像研」にはこの呪縛がない。まったくない。
そこから、「ない」ものを数えることで、「映像研」のレビューが組みあがっていった。
あと1章続きます。