追記です。
内容はネガティブです。
メンタルに問題がなく、元気!と自信がある方のみ、読むことをお勧めします。
念のため、ちょっと沈めます。
6章を費やして、自分の心の守り方について書いてみました。
生きていくのは楽しい。でも同じくらい辛いこともたくさんある。
自分一人で立ち向かわなければならない危機に直面することもある。
そういうとき、心の持ちようひとつで変わってくることもあると思って、私が実践していることをシェアさせていただきました。
「シェア」と言っても、私からすると一方的に自分のブログに書いたに過ぎないので、「シェアされた」と感じた方がいらっしゃったら、なんらか反応をいただけると嬉しいです。
既にいただいた方、ありがとうございます。書いた甲斐が少しはあった、と非常に励みになっております。
一方で、人に危害を加える人についても、ずっと考えていた。
どうなると、無関係の大勢の人の命を奪おうなんていう発想になるんだろうか。
その延長上に、4章の「感情の部屋」の考え方が出てきた。
ああいう犯罪を犯す人と自分の間に、それほど距離はない、というのが、今のところ私の結論だ。
ここからは、その先の話。
私は、こうして書くほどには、自分で自分の心の守り方を知っている。ちゃんと育ててもらったおかげで、一人前……かどうかは分からないけど、一応独り立ちして、自分の面倒を見ることが出来る。
だから多分、今後も何か危機に直面したら、自分でなんとかするだろうし、なんともならなければ、しかるべきところに「助けて」と言えると思う。
まあ、自立した大人と言って差支えないんじゃないだろうか。
しかし書いたように、これは親からちゃんと育ててもらったから一応「ちゃんとした人間」になれたわけで。
では、親からちゃんと育ててもらえなかったらどうなるのか?という問題がありますよね。
親から愛情を受けなかった、育ててもらえなかったと感じながら成長してきた人。
家庭の状況によっては施設で育つこともある。そこの環境いかんによっては、やはり愛情の飢えが満たされない可能性は十分ある。
失敗して怒られたとき、(自分が悪かった)と受け止めて反省するのだって、そうするよう矯正されるから出来るようになることであって。
私が今それをまがりなりにも出来るのは、今まで何度も失敗して怒られての繰り返しがあって習得したからだ。怒ってくれた人のおかげ。
心が幼いままで、ワガママにちゃんとつきあってくれる大人がいなかったら、怒られたらふてくされてしまう幼児性を一人で克服できるんだろうか。
身体だけは育つけれども、バイト先とかで何か失敗して叱責され、人のせいにする人、いますよね。
そのまま悪びれない人、怒られるのがイヤで人のせいにする人。
それは心が弱いせいだ。人に怒られてもへこたれない芯の強さを育ててもらえなかったせいだと思う。
それって、100%本人のせいと言えるんだろうか。
でも、そんなヤツ、まともな人なら取り合わない。憎めない愛嬌があるとか、他のすごい特技があるとかならいいけど、そうではなく、人から注目されない地味なタイプなら、放っておかれるだけだろう。
だから、その弱点が克服できないまま、失敗の経験だけを重ねることになる。
こういう人なら恐らく、(悪いのは自分じゃない)てなるんじゃないですかね。他の人は、自分と比べて何でもうまくこなしているように見えるだろうし、楽しそうにも見える。その人が陰でしている努力とか、見えない辛さとかは、幼いから想像してみることが出来ない。
すると、(自分ばかりこんな辛い思いをしている)と感じることになる。
人が褒められるとイラっとするし、また失敗して怒られれば、(なんで自分ばかりがこんな目に遭うんだ)と憎しみが沸くだろう。
普通に生きていても、こういう思いに捉われてしまうことがある。私たちはそれを「病む」という言い方をするけど、まさしく病気だと思うんですよね。
で、上に述べたような境遇の人なら、ずっと「病んだ」状態におかれているのだと思う。
寂しさと不満と、なにもかもうまくいかないことへの苛立ちを抱えて、でもどうすればいいのか自分では分からない。こういう人はきっと友達もいないだろう。
毎日楽しくない。怒りをもてあまして周囲にあたる。壁に何かぶつけたり、大声でわめいたりする。ただ、そういう怒りの行動って自分をヒートアップさせるだけで解決にはならないから、もっと頭に血が上って、場合によっては外から苦情が来たりして、もっと怒りが増幅することになる。
想像するだけで辛い。
こうした鬱屈の先に、凶暴な事件があるのだと思う。
無関係な人を大勢巻き込む悲しい事件が起こらないためには、こういう、社会からこぼれてしまった人を掬い取って救済するシステムが必要なんだと思うんですよね。本当は。
ハズレの親の元に生まれてしまったらその後の人生が詰んだままなんて、惨過ぎるじゃないですか。
人は誰でも、せっかく生まれたなら幸せに生きる権利があると思うんです。
私が上に例として書いたような、ひねくれてて卑屈で、失敗は人のせいにする子って、まあなかなか好かれはしないと思うんだけど、「なぜこうなったのか」「このままだとどうなるか」を、考えなくちゃいけないんじゃないかなあ、と。
「お前、それじゃダメだよ」
と言ってくれる人、テレビドラマの熱血教師みたいにとことんつきあってくれる人と一人でも出会えれば、多分その後が全然違うと思うんですよね。
で、産んだはいいけどまともに育てられない親の方も同じだ。産んだのに育てられないのは、人として心が未熟なのだ。それは本人のせいばかりじゃない。
こういう人も、労わって代わりに育ててあげるとか、全面的に育児のサポートするとか、そういうシステムがあっていいじゃないかと思うんですよね。
親ならちゃんとやれとばかり放置、すごく困っていても頼れる相手がなく、追い詰められて虐待事件が起こってから、今度は「人でなし!」とボコボコに叩くって、そりゃちょっとあんまり同情心ってもんがねえんじゃねえの……と、この社会が時折見せる無情さに心が冷える。
海外に行くと、(うわー日本人て国民全員がちゃんとしてるわー)と感動する。
一方で、この国は「ちゃんとしてない」人に対してすごく冷たいところがある。
「ちゃんとしてない」人も、それだけで冷ややかに見たり放置したりしないで、共同体から弾かない視点というのが必要なんじゃないかと思うんですよね。
じゃあそんな「システム」ってどんなのかというと、今のところ思いつかないのですが。
私が1人で暮らしているところへ訪問員に訪ねて来られて、
「もしもーし、お一人ですか? 何か困ってることないですか? 最近何で怒りましたか? 友達いますか?」
とか聞き取り調査やられても困るんだけど。
どうすればいいのかなあ。
秋葉原や池田小ややまゆりや、ああいう事件が起こると、
(ええッなんで……!?)
と愕然とする。巻き込まれた無辜の人々の悲劇に胸が潰れそうになり、犯人に強い憎しみを覚える。被害者がそうだったように、出来るだけ苦しんで死ねばいい、と思う。
思うけれども、それでは問題解決にならないのも事実なわけで。
(どうすれば防げるんだろう)
と、ずっと考えている。事件が起こってから大騒ぎして、犯人を逮捕して厳罰が下されたとしても、抑止力にならないことは明らかだからだ。
でもなぜか、犯人の方に心を寄せて、なぜそうなってしまったのかという視点で事件を見る記事なり番組なりは目にしたことがない。
でも、私が上で挙げたようなタイプの人、たくさんいると思うんですよね。事件を起こす犯人の全員とはもちろん言わないけど。
そしてまた京アニの事件が起こってしまった。
結論はまだ出てないんだけど、犯人たちを「特別な人種」と遠ざけて考えることでは、解決しない。
彼らを怪物に育ててしまったのは、弱いものを排除し、なきものとして扱う、私たちの社会なのだと思う。
こんなこと書いてるけど、私も全然公平な人間じゃないし、偏ってるし、電車でちゃんとしてない人を見るとちょっと遠い席に座ったりしてます。
けども、子供を育てられない親は病気だから、共同体の全員で大事にして、子供もみんなで育てた、というような沖縄の昔話を聞くと、そういう場所なら、怪物は出ないのかもしれんなあ、と思う。
弱い者は排除する、臭いモノには蓋をする、そういう構造の社会では、この問題は解決しきれないんじゃないかなあと、そう思っております。
あ、ただ、私が考えているのは「システム」であって、個人として幼稚な人に対峙するのはまた別の話なので、混同されませんように。
そういう人と関りを持って、相手が境界性の人格障害だったりした場合、選択肢は「逃げる」一択だから、「君子危うきに近寄らず」という教えは正しいんです。
「心が育ちきっていない人を助ける」「ただし個人的な負担はなしで」この二つを成立させる名案はないものかしら。
悩ましい。