おっさんずラブが好き!

ドラマ「おっさんずラブ」の細かすぎるレビューブログ。OLの深い沼にハマって当分正気に戻れません。ほぼおっさんずラブの話題しかないかもしれない。ネタはバレまくりなのでご注意を。

休暇の終わり

 長い長い自粛期間が明け、今日は久しぶりに通常の営業でした。

 そういった方も多かったのではないでしょうか。

 家に閉じこもっている間に、季節はすっかり変わっていた。職場から最後のお客さんを送り出したとき、まだダウンを羽織っていたのに、今やもう初夏だ。

 

 

 この長い休暇に得たものは何でしたか?

 私はですね……ズバリ、「筋力」です。

 筋トレに明け暮れた甲斐があり、身体のあちこちが固くなってます。

 職場で、水の入ったケースを持ちあげたら、ひょいっと造作もなく持ち運び出来て、自分で驚いた。以前は腰を痛めると怖いから押して移動させていたのに。

 閉じこもっていた割には、階段の上り下りとか、荷物を抱えたまま走ったりだとか、色んな動作が明らかに楽になった。

 やっぱり、筋肉は鍛えておくにこしたことはない。

 

 

 あとね、YouTubeをめちゃめちゃ見るようになった。テレビよりもYouTubeの方に面白い何かが落ちているからだ。

 今日久しぶりに会った人も何人か、同じことを言っている人がいた。

 そんな中、こんな動画に出逢ったので、貼ります。

www.youtube.com

 

 ジャニーズって面白いもので、一つのグループを好きになると、芋づる式に周りのグループもなんとなく好きになっていく。

 私はkat-tunが好きなんですが、キムタクは「亀梨くんの憧れの人」だし、桜井くんも上田のたっちゃんの慕っている兄貴だし、まっすーは中丸くんの仲良し。…という風に、推しグループと何か関りがある人が一人でもいると、もう無関係じゃないというか、「推しの仲良し」として好きになる。

 で、手越くんも親しみを感じる存在として認識していた。

 BSのJ番組で、アイドルやグループにかける思いを熱く語っている手越くんを見て、根は真面目な好青年なんだなあ、と思っていた。

 こないだの、日本中からバッコバコに叩かれていた例の騒動ね、あのときも、あーバカやっちゃったな…と思うとともに、あのときの真面目さを嘘だと思いたくなくて、なんとなく心のどこかに引っかかっていた。

 だからこの動画をクリックしてみる気になったんでしょうね。

 

 

 内容は、2年まえの広島の豪雨の際、プライベートの手越くんがふらりとやってきて、土砂をかきだしたりボランティアとして力仕事に精を出していたこと、それは好感度を上げるための工作なんかではなく、マネージャーもカメラマンも同行せず、友人2人とやってきたようであったことを、その場に居合わせた人が語るというもの。

 見て、私は反省した。そうそう、そうなんだよ。人には本当に色んな面があって、一見矛盾するようでも、同時にたくさんの顔を持ち合わせることが出来るのだった。

 だから、あるひとつの行動だけを切り取ってその是非を決めつけるだけでなく、(そんなことをするやつだったのか)と、その人の他の行動すべてを断じてしまうのは、大いなる間違いなのだ。

 でも、私もあの騒ぎでちょっと、私の中の手越くんの株が下がったと感じた。

(真面目にNEWSの活動やっていると思ったのに違ったのか。やっぱり芸能人なんてそんなものなのかな)

と思った。

 それは短慮でした。

 

 

 人の思考の癖として、「すべてに意味を求める」というものがある。

 この手越くんの例で言えば、

A.手越くんは2年まえ広島の豪雨災害のボランティアに好意で行った。

B.手越くんは今年の自粛期間中に夜の街で豪遊した、という記事が出た。

 このAとBは並立しうる。ところが得てして、「みんなが自粛している中で豪遊するなんて何を考えているのか」→「ということは2年まえのボランティアだって好感度を上げるための話題作りに決まってる」という具合に、ふたつの間に意味づけをしようとする論調がまかり通ってしまう。

 人間て、そんなに単純じゃないですよね。脳は同時に数十の項数をこなしているし、こないだの「感情の部屋」の例えで言うなら、同時に色んな部屋の明かりがついていて、通常運転でこなせる人はたくさんいそうだ。

 家では親に逆ギレして「死ねよババア!」と悪態ついていても、電車では杖を持った人にスマートに席を譲っていたりとかね。

 

 

 ええと、私は決して手越くんという人を擁護しているわけではなく、上の動画の内容も鵜呑みにしているのでもありません。

 いや、そうだったんだろうな、と思うけれども、例えばこの2年の間に何かがあって、彼の中で変質してしまったものがあるのかもしれない。

 でも、それは誰にも分からないし、世に出た切れ切れの情報だけから、一人の人間のすべてを分かったような気になるのは危険だ、という話なんです。

 でも下世話な週刊誌の記事とか、誰が書いてんだか分からないなんちゃらサイトのニュースとかは、そういう方向に誘導したがるよね。

 人が行きやすい流れは、やはりちょっと(本当にそうかな?)と立ち止まって考えてみた方がいい。

 その、「大勢の人が信じやすい」方向への誘導の果てに、あの悲しい事件があったのだと認識しておかなければ。

 

 

 SNS時代になって、人が急にバカになったわけじゃないと思う。そうではなく、私たちは元々、愚かな生き物なんですよ。考えなしにぽろっと言ってしまった一言が誰かを怒らせたり、傷つけたり、普段から数限りなくやっちゃってるんだと思う。

 ところがそれが、SNSに一度載ると、「誰か」の数が圧倒的に増えたりする。そして、一度載ったものがいつまでも消えずに残る。だから、リアルのやり取りなら時間の経過と共に消えていってしまうものが、ある一点がレンズを通したごとく拡大され、前後の文脈もぶったぎって歪められ、悪意を持って拡散される。そういう時代になったんだと思う。

 大人から子供まで使えるツールだからこそ、法整備も必要だけれども、みんなが自分自身の愚かさをもっと認識した方がいいんじゃないか。

 少なくとも私は、はからずもコロナ禍がもたらした現象については、自分自身を振り返り、愚かしさを深く噛みしめることになった。

 

 

 人間が大好きな「意味づけ」が危険というのは、機会があればまた別項で。

 

 

 長い長い休暇であった。

 休暇「であった」と、早く過去形で断定できるようになるといい。

 さすがにひきこもりももう飽きたぜよ。