「アラ! やっぱり奥さんとモメたりなんかしちゃったりして。アヒャヒャヒャヒャ!!」
このマイマイの邪悪なゲスパー、ドンピシャで当たっていた。
場面は変わって、黒澤家のリビングが映し出される。
険しい顔の蝶子さん。
「何か言ってよ」
低い声で言って、ソファにあったクッションを掴んで夫に投げつける。ばぁーんと部長に当たったクッションに大した攻撃力はない。けれども、部長の胸は痛んでいる。はず。
何か説明しようとしたのか、口を開きかけた武蔵、言いあぐねたように下を向いてしまう。
蝶子さん、苛立ちをつのらせて
「なんか言ってってば!ねえ!」
2個目のクッションを武蔵にぶつける。武蔵、胸でキャッチ。
軽いはずのクッションがまるで10kgの米袋のように重たげだ。そしてその重さに耐えかねたように、ゆっくりと膝をつく武蔵。
「…………すまん」
小さな声で言い、そのまま、顔をあげることが出来なくなる武蔵。
「私は、別れる理由が知りたいの。……私の何が悪かった?」
と蝶子さん。
「おっさんずラブ」第一話冒頭、結婚30周年を祝った2人。あのとき武蔵から差し出された赤い薔薇の花束を、蝶子さんは「きれい!」と喜び、「あなたと結婚してよかった」と言っていた。長年連れ添い、信頼しあう夫婦の姿そのものだったはずで、「これからもよろしくお願いします」と何の疑いもなく婚姻関係の継続を申し出ていた蝶子さん、まさか花束の贈り主から別れを切り出されることになるとは、夢にも思っていなかったわけで。
ところでこのドラマ、一話冒頭のバスでぶつかるシーンは4月20日(部長のスマホ画面参照)なので、春田と牧が初めて顔を合わせた合コンはその前日の4月19日ということになり、黒澤夫妻のデートも同じ日と思われる。
で、このド修羅場の日は、恐らく5月2日のことなので(部長の手帳のスケジュール参照)、あのラブラブデートからわずか2週間後ということになる。
まあそれを言うなら、夜の公園での「はるたんが、好きでぇぇーす!!」という告白が推定4月27日の出来事なので(春田の営業日誌参照)、あの1週間後には妻ではない他の人(しかも男)に愛を告げているわけだけれども。
蝶子さんにとっては、
「離婚して欲しい」
といきなり言われたときの
「へッ!? なんで???」
が未だに頭に渦巻いた状態だと思われる。
「離婚」という、夫婦にとっての重大事を突然言い出した夫のタワゴトを「はぁぁ~!!?」と責めたい気持ちが大いにあると思うんだけど、そんな状況でも
「私の何が悪かった?」
と言える蝶子さんという人は、本質的に優しい人なんだな、と思えます。
しかしともかくも、これまで優しかった夫の、突然の変心の理由が知りたい。
30年の結婚生活を終わらせようというのだから、よっぽどの理由があるはずで。
だから、
「いや、君が悪いんじゃないんだ」
と言われたところで、蝶子さんにとっては何の解決にもなってないし、ヒントですらない。
「じゃあ何で?」
と追及を続けるしかないですよね。
ところが武蔵、
「ううーん」
と煮え切らない。
まあね、はるたんに恋して11年もの長い間、思いを秘めたまま生きてきた武蔵だ。ようやくはるたんに告白し、晴れておつきあいをするために「既婚」という自分の身分を何とかせねば!と動き出したものの、だからと言って、
「黙ってましたが実は男性の部下を好きになってしまい、先日とうとう告白しました。新しい恋に進むために離婚してください」
理路整然と説明する、というわけにもいくまい。
「他に好きな女が出来たの?」
「そうなんでしょう!」
と詰め寄る蝶子さんの気持ち、私は独身だけど、分かるような気がしてしまうなあ。
何度か書いているけど、人にとって最もストレス値が高いのは「分からない」という状態だ。「夫に離婚を切り出された」=「他に好きな女が出来た」と、原因が分かれば、気持ちにひとつ区切りをつけることが出来る。そこで改めて対処法を考える、という次の段階に進める。
それが分からないままだと、どうにも蝶子さんの中で、消化することが出来ないわけで。
「女じゃ……ないんだ」
と声を絞り出す武蔵。
うん、嘘はついとらん。確かに相手は女じゃない。けど今言うべきはそういうことじゃなく、その先なんだけど、この時の武蔵には言えない。
「この30年、なんだったの…?」
「何でも言い合えるのが夫婦なんじゃないの…?」
床に座り込んでしまった蝶子さんの述懐にも、ついに答えることが出来ないままだ。
「実は…」「俺は…」と繰り返した挙句、
「ふあぁぁ~ッ!」
と何とも言えない声で慨嘆(?)する武蔵、ドシリアスな場面なんだけどユーモラスで、可笑しいんだけどやっぱりせつなくて、印象に残る。
黒澤武蔵は、既婚男性で、蝶子さんという美しい妻がありながら、春田という男性の部下を好きになって告白し、「おっさんずラブ」という物語の推進力となっていく。
不倫スレスレではあるんだけど、放映当時、武蔵の恋も応援する声が少なくなかったのは、実にこの、「武蔵の苦悩」がきちんと描かれていたからだと思う。
春田に恋して11年、と書くと簡単だけど、11年て長いですよ。
そして、それだけの年月を悶々として過ごして、それでもやっぱり諦めきれないのなら、(自分の気持ちに正直になろう!)と一歩を踏み出した武蔵に対して、視聴者は反感を持てない。
「11年」という設定があるだけで、その間に散々悩んだだろうし、恋心を忘れ去ろうともしただろう、だけど忘れることが出来なかったんだな、と勝手に背景を想像出来てしまう。
だから、ここで蝶子さんの涙を見て、心から気の毒だと思ったとしても、武蔵を責める気持ちにはならないんだな。
嫌いになったわけじゃないけど、春田への恋を自覚して、もう表に出してしまったからには、「結婚」という形にきちんとけじめをつけなければならない、と思う武蔵の誠実さも分かるし、蝶子さんを傷つけたくないがために、本当のことをなかなか言えない胸中も察することが出来てしまう。
そして、武蔵の気持ちに共感する人も、実は少なくないんじゃないかと私は思う。
一人の人を好きになって結婚して、平穏無事に何十年か過ごしたとして、その間他の人に心を移したことが
「一度もない。断じてない」
と言い切れる人、どれだけいるんだろうか。
当初の情熱を失って、愛が冷えてしまって、他へ目移りすることだってあるだろうし、伴侶に対しては変わらず「好き」という気持ちはあるけれども、全く別のタイプの魅力的な人と出逢ってしまって、なんかそういうことになっちゃった……ということだってあるだろう。
まあその辺はね、人の気持ちは一筋縄ではいかないもんです。一度出した婚姻届で結ばれた関係を法律が保証していようと、そんなことは関係ない。
ただ、一緒に暮らすことを選択した伴侶との間には、「愛情」という一言だけでは現しきれないものが色々詰まっている。
家族としての情愛、他の人との間にはない絆、そして共有してきた2人の時間。
それがつまりは夫婦の「歴史」であって、終わりの幕を下ろすには、それなりにエネルギーが要るのだ。
そこのところをこうして丁寧に描いたからこそ、「おっさんずラブ」というドラマに奥行きが生まれ、武蔵も蝶子さんも、視聴者の心を掴み愛されるキャラクターになったのだと思う。
その意味で、このド修羅場シーン、重要な場面だと思います。
航空編の黒澤機長には、この葛藤がなかった。
部下の男性を好きになり、娘の相手らしいと分かっても、悩むのは「彼が自分を選ぶかどうか」であって、娘に対する忖度が見られなかった。
そういう人も世の中にはいるだろうけど、やはり一般的には理解されにくい心情だろうし、王道の常識を持っているとは言えない私が見ても、機長武蔵は「珍獣」にしか見えなかった。
恋愛の純粋性を高めるために設けられる「同性同士」や「既婚」「上司と部下」という立場は、やはり乗り越えるためにはキャラクター達が葛藤し、苦悩し、ある程度の犠牲を払わなければならない。
それらを省略されてしまうと、視聴者がキャラに感情移入するとっかかりというものが消えてしまう。
なんというか、航空編を見た後だと、この場面の重要性が一層よく分かる。
その意味では、あのトンチキな続編でも見ておいてよかったです。