おっさんずラブが好き!

ドラマ「おっさんずラブ」の細かすぎるレビューブログ。OLの深い沼にハマって当分正気に戻れません。ほぼおっさんずラブの話題しかないかもしれない。ネタはバレまくりなのでご注意を。

とあるOL民の終戦記念日2020

 8月15日、日本は75回目の終戦記念日を迎えた。

 昭和20年のこの日をもって日本は戦争状態を終結し、以降更新されていない。

 平和の中でこの日を迎え、こうして自宅でこの記事を書けること、まずはめでたいと思う。



 子供の頃から、私にとって戦争とは、「勉強する」ものだった。

 日本はかつて戦争をしていた。戦争を知っている人たちがまだ大勢生きていて、比較的近い時代の「歴史」であった。

 一番古い記憶は、丸木位里・俊の「ひろしまのピカ」だ。母が買ってきて私に与えたものだった。

 その後も、折にふれ色んな本や資料や映画で戦争について知ろうと努めてきたことは、以前この記事でも書いた通り。




 最初が小学校の1年生だったとすると、私の「戦争学習」は40年に及ぶことになる。

 でも、最近になるにつれ、戦争当時がどんどん近く感じられるようになってきた。

 以前は、「学ぶべき歴史」であって、本の中、画面の向こうで起きていることに過ぎなかった。

 あの戦争当時が、今と地続きの時間と空間の先にあること、ものすごく変わってしまったようで、今と全然変わらないものも多いこと。

 私たちが生きているこの日常も、小さな変化に敏感にならないと、少しずつじわじわと浸食された「異変」によって、かくも無残に砕け散ること。

 死ななくていい命が、いとも無造作に、なんの意味もなく大量に失われていったこと。

 そこに責任をとるべき大罪人=大悪人がいるとどこかで思いたかったけど、そんな人間はどこにもいないこと。

 ごく普通の人が、ある条件下では信じられないくらい残虐なことをやってのけること。




 戦争は、知らずに育った私からすると「異常事態」だけど、たくさんの小さな「異常とまでは言えない変化」の積み重ねの結果であると、そんな風に考えるようになった。




 NHKアウシュビッツの特集を見たんだけど、ナチスホロコーストに関する資料を目にするたび、考えてしまうのは、アドルフ・アイヒマンのことだ。

 アウシュビッツを始めとした強制収容所を「運営」する責任者であったアイヒマンは、「いかに多くのユダヤ人を効率よく始末できるか」という任務を粛々と執り行った。

 ドイツの敗色が濃くなり、処刑の遂行を中止するようにという命令がきたのに従わず、相変わらず任務をこなしたという。

 連合国軍がドイツに入り、ナチスの蛮行が白日の下に晒されたのち、南米に逃れたアイヒマンは後年イスラエルモサドによって拘束され、強制連行されて裁判を受けることになるのだが、終始無罪を主張していたという。

「私は一人のユダヤ人も殺していない」

「私がしたことは命令に従ったことだけだ」

と。 




 若い頃は、アイヒマンが極悪人に思えた。サイコパスか、どこか人格に重大な欠陥があるのだと思っていた。

 今は、まったくそうではないと考えている。周囲の人も証言するように、アイヒマンとはごく平凡な人間だったに違いない。与えられた仕事を従順に、効率よくこなすことに自分の存在価値を感じるような、公務員タイプの能吏だったのだ。

 彼は最後まで自分の罪を自覚せずに死んだのではなかろうか。




 その、「アイヒマンが凡人だった」という事実こそが今、かつてよりももっと、私を戦慄させる。

 それはとりもなおさず、自分をごく平凡だと思って生きている私自身の中にも、ホロコーストに繋がる残虐行為を行うスイッチがあるということだ。

 多分、そうした状況に追い込まれたら、自分の行為を振り返って是非を問うような理性は失われているだろう。人の脳は自分を正当化するのに驚くべきポテンシャルを発揮するものだから。

 そのスイッチを容易に入れてしまう、それこそが正義の行為だと思ってしまう、それが戦争の恐ろしさだと思う。




 女性、子供、老人、身障者、精神科の患者たち、多くの人が迫害されて犠牲になった。

 虐げられ、無念の死を遂げた同性愛者も少なからずいたと言われている。



おっさんずラブ」を鑑賞し、優しい世界に癒されるのもいい。

 でも、この世界はまだリアルじゃない。

 同性愛者を含むLGBTの人たちも、それ以外の人たちも、差別したりされたり、甘くない現実を生きている。

おっさんずラブ」のバリアのなさを現実のものにするためには、色んな立場の人たちを思いやる想像力と、実行する行動力を持たなければいけない。

 差別という悪に「NO」を唱える勇気も。




 とか、そんなことを考えながら、終戦記念日を過ごしたのでした。