この地球上にはたくさんの地域があり、その数だけ文化がある。
文化の優劣をつけることは無意味だが、その文化が豊かかどうかは、そこにどれだけ「異界」が内包されているか、によると思う。
小学校のとき、「トイレから青い手が出る」と大騒ぎになったことがある。
まだ和式で、かろうじて水洗だったけど、木造校舎の小学校で、小学生にとってトイレは楽しいところではなかった。不気味で、出来れば行きたくない場所だったと思う。暗かったし。
トイレだけではない。体育館倉庫や音楽室、実験室など、薄暗がりに沈んでいるイメージのある場所は少なくなかった。「日常」とはちょっと違った場所にあって、得体が知れなくて、何が起こっても不思議でない雰囲気が漂っていた。
だからして、昭和の小学校では当然のように怪談が語られていた。音楽室に貼ってある音楽家の肖像の眼が動くだの、ある時間にある作法にのっとってトイレに入ると、赤いマントだか青いマントだかが現れるだの、もう覚えてないけど、それはそれはバリエーション豊かな怪談が小学校生活を彩っていたのは間違いない。
トイレは特に人気のパワースポットで、花子さんが出たり、なんとかくんが出たり、色々だった。
「学校の怪談」という本は、そんな昭和の子供の怪談をまとめた、いわば民俗学のフィールドワークだったと思うが、それがどうしてああいうフィクションになったのか、後から首をひねったものだ。
夜道を歩くと、塗り壁が出たり、かまいたちが出たりする。
雷が鳴る夜は気をつけないとおへそを取られる。
叶えたいことがあるときは、誰にも知られずにお百度を踏む。
昔の人は、「日常」のすぐ隣に、そういう異界への入口があった。
小学校という空間で、昭和の子供たちが感じていたのも、同じような「異界」の存在だったと思う。
いつものあの場所が、夜中には違う場所へ通じているかもしれない。
なにかこの世ならざるもの、人ならざるモノが出てきて、日常を脅かすかもしれない。
「異界」は、怖い存在だった。
同時に、ワクワクさせられる対象でもあった。
子供だけでなく、多分人間てみんなそうなんじゃないかと、私は思っている。
人のいるところ必ずあるのが、神話と酒と、怪談だ。
世界中のどの地域にも、必ずその土地の神さまと、オバケがいる。
技術が進んでネット社会になるのはいい。便利だし、人生が楽に、楽しくなる手助けをしてくれる。
ただ、あまりにも何もかもが科学できっちりと解明されて、「異界」の入る余地がなくなるのは、その文化が貧しくなるんじゃないかという気がする。
ネット社会に怪談は存在を許されるのか……と思っていたら、ちゃんと自然発生していた。
くねくね、コトリバコ、八尺様。主に2ちゃんのオカルト板発祥だけど、ネットでは語り継がれている。
「岸辺露伴は動かない」、面白かった。
現実の裂け目の「異界」を描いているようで、どこまでが現実でどこからが異界なのかも判然としない不気味さがありながら、コミカルで、フィクションで片づけられないずしっと重たい何かも秘めていて。
「富豪村」もよかったけど、「くしゃがら」はやはり怪作でしたね。
開いた本のページの間にうごめいていた黒いアレについて、つい考え込みそうになりつつ、(…おっと、いかんいかん。とりつかれてしまう…)と回れ右するような。
立っている足元がすくわれるようなリンク感、嫌いじゃないです。
ジョジョがネタ元と知ってはいるんだけど、私はジョジョを読んだことがない。
でも楽しめた。
原作ファンからも好評だったみたいですね。高橋一生の露伴先生も、飯豊まりえの泉ちゃんも、非常にいい味出していた。
しかし、森山未來はすげーな。高橋一生との演技相撲、がっぷり四つに組んで一歩も引かず。あれ、役者としても楽しかったんじゃないかなあ。めちゃくちゃ見ごたえあったし、2人の一挙一動を固唾を飲んで見守るような緊張感が堪らなかったです。
未見の方にもおすすめ。
理屈ではどうやっても説明がつかない事柄というのは、案外身近で起きる。
私もつい先日、実際に経験して、生まれて初めて「身の毛がよだつ」という感覚を味わったのだけど、それはまた今度にしよう。
おっと、誰か来たようだ。
誰かな、こんな夜中に……