おっさんずラブが好き!

ドラマ「おっさんずラブ」の細かすぎるレビューブログ。OLの深い沼にハマって当分正気に戻れません。ほぼおっさんずラブの話題しかないかもしれない。ネタはバレまくりなのでご注意を。

黒沢雄一の憂鬱

 チェリまほにおける黒沢雄一というキャラ、一言で言うと「パーフェクトイケメン」なんだけど、色々と情報量が多い。

 ルックスのよさというのは、少女漫画やドラマにおいてはほぼ必須条件でもあって、主人公の相手役となれば、その美しさが「全校一」とか「社内一」とかは当たり前の、ハイパーイケメンor魔性の美女だったりする。

 凡人の夢を叶えてくれるフィクションとしては、その設定は的外れではないし、読者/視聴者もそれを当然と捉えていて、誰からも美しいと認められる容姿を持ったキャラ本人の内心にまで踏み込んで考えることは、あまりなかったとも言えよう。

 その点、この作品は、「外見」というものに大きく踏み込んだ点でも、これまでのコミック実写化作品と一線を画していると言えるかもしれない。



 私自身は、「美人」とは程遠い。お世辞で「可愛い」と言われることはあっても、「美」という評価とはほぼ無縁で生きてきた。

 が、なぜか、親友と呼べるレベルにまで仲良くなる友達は、美人が多かった。これは今に至るまで変わらない私のジンクスで、私自身は全然外見で選んでないのに、たくさん出来た仲良しの中で、魂を分かち合うほどに親しくなった人は、なぜか美しい容姿を持っているのだ。

 で、彼らは私のド田舎の実家にまで足を運んでくれるんだけど、私の亡くなった祖母は口が悪く、いつだったか

「あんたの友達はみんな美人だね。あんたは全然美人じゃないのに」

と感心したように言っていた。

 そうだよ。確かにその通りだけど、後半の台詞要るー!?と、当時は私も若かったので、激おこ……とまではいかないにしても、「プリプリ」の「プリ」くらいには怒っていた。

 まあでもね、その分、「美人」であることのデメリットも、近くで見てきてはいるのです。



 美しい人は、平凡な容姿の人よりも、人生において享受するメリットが大きいと、数値化しているデータもあるそうな。

 だがしかし、アンケートに答えることで算出される数値などではなく、それぞれの個人が感じてきたことを聞き取りしてみたら、果たして本当に、それほどメリットに傾く結果が出るかどうか。

 私の美人の親友たちも、美人であるが故に、多分得なことも多々あるだろうけど、私が知っているだけでも色々嫌な目にも遭ってきている。

 本人が認識しない有象無象の異性に目をつけられるのはいうに及ばず、通りすがりに下品な視線を向けられたり、野次を飛ばされたり、通勤ラッシュの電車で痴漢に遭ったり。

 親戚とか部活の先輩とか、心を許していた相手に、不意に密室に連れ込まれて怖い思いをした人もいる。

 で、その被害を訴えても、「美人だからね…」と、あたかも本人の容姿に責任があるかのような言を受けて、さらに傷ついてしまった人もいる。




 チェリまほで黒沢が語った、自分の外見に関するコンプレックス。彼もまた、美しい外見を持つがゆえのデメリットを感じながら過ごしてきたことがよく分かる。

 安達は「モテ・オブ・モテ」の人生を単純に羨ましがっているけれど、モテると言ったって、それは

「外見で人を好きになる」

 マインドの持ち主に好かれた、ということに他ならないわけで。

 黒沢本人はそれを武勇伝ともなんとも思っていないし、ドラマの描写を見る限り、嬉しいとも感じていなさそうだ。

 会社に入ってからだって、重要な取引先との会食に呼ばれて、せっかく相手の製品の情報をきちんと押さえて臨んだにも関わらず、そこは評価してもらえない。

「顔要員でしかない」ってさあ………そりゃないんじゃない、と、見ていて私までせつなくなった。




 あとさ、このドラマ、色んな立場の人への配慮が行き届いた演出だとは思うけど、王様ゲームの女先輩といい、モンブランがないことで激おこだったハシモト社長といい、時々出てくる「リアル社会にいる古い価値観を持つ人物」の描写がえぐい。どちらも、原作コミックだともっとマイルドな描き方だから、あえての演出なんだとは思うけど、うーん、ここまでキツくする必要があったのかなあ…と、何度も何度も繰り返し見ていると思ってしまう。

 この女社長も、ちょっと酷すぎません? だってさ、せっかく自社製品を理解して、ユーザーでもあると分かっている取引先の社員にさ、セクハラしかけるとか、アリなの?

 太腿に手を乗せて、

「どっか、休めるとこ、いく…?」

って、完全にバブルのノリというか、それこそ時代錯誤過ぎて引くわ。

 で、この場にはこの社長のノリにドン引きしたり諫めたりする人は誰もおらず、被害に遭った黒沢の方を責める前世紀の遺物社員しかいないのがさらに悲劇なのだった。




 切ないのは、黒沢本人が自分の受けた被害をセクハラだと訴えるでもなく、(役得と割り切らないと…)と自分に言い聞かせているところだ。

 外見が美しいから、見た目で評価されてしまう。裏で積んだ地道な努力は認めてもらえない。

 そこを、声高に主張するのではなく、「期待に完璧に応える」ことで、本当の自分を見て欲しいと思った黒沢。

 ルックスのよさが、重すぎる看板として黒沢の背にのしかかり、生き生きと思うがままに行動する自由を奪っている。

 こんなものを背負って生きてきたのか、と思うと、黒沢の重圧に胸が潰れそうになる。



 

 人は誰しも、見た目の評価と無縁ではいられない。美しいものを良いと思い、美しくないものを退けたり、ないがしろにしたりするのは、ある意味自然な心のはたらきでもある。

 なんで美人ばかりチヤホヤされるのか!とむしゃくしゃしている不美人の奥様だって、店に並んだ野菜を選ぶときは、無意識につやっと光った見てくれのよい野菜を手に取るに違いないのだ。

 ただ、人間は野菜じゃない。自分がどう見られ、どう評価されるのか、それについて色々と感じる心を持っている。

 どんな見た目の人も、外見への評価で不当に傷ついたり、悲しい思いをしたり、そういうことがないといいなあ、と思う。

 



ルッキズム」という言葉があることは知っている。

 意味も分かるけど、私にはまだ馴染まない言葉なので、この稿では使わなかった。

 このことに関しては、まだ言いたいことがあるので、それについてはまた今度。



 安達の分もワインを無理して飲んで、セクハラ社長からは散々な目に遭って、夜の公園で安達に介抱されていたときの黒沢は、きっと心の中が真っ暗だったことだろう。

 思わずこぼしてしまった弱音を、受け止めて、黒沢がやってきたことをちゃんと見ていて、評価してくれた安達。

 いつも完璧な黒沢の、全然完璧じゃない弱った姿を、

「新鮮」「なんか…いいな」

と言ってくれて、幼い子供にするように、

「寝ろよ」

と胸をポンポン、としてくれた安達の手。

――初めて心に触れられた気がした――

 という、黒沢の心の中の述懐が、こうしてみるとよく分かる。

 自分から人を好きになったのも安達が初めてで、しかも自分でも制御できないくらい好きになってしまうのも、この7話を挟むと、非常に説得力が増して感じられる。



 黒沢が、安達を全部まるごと好きになったみたいに、自分のことも、カッコいい部分もカッコ悪い部分も全部、ひっくるめて自分として受け止めることが出来るようになっていればいいな、と思う。

 物語は安達の成長に焦点を当てて描かれていたけど、安達とつきあうようになって変わっていく黒沢の成長についても、こうして視聴者に提示されている。

 お互いがお互いにとって必要な、素敵な恋愛だなあと、「チェリまほ」はどの回を見ても思うのです。