おっさんずラブが好き!

ドラマ「おっさんずラブ」の細かすぎるレビューブログ。OLの深い沼にハマって当分正気に戻れません。ほぼおっさんずラブの話題しかないかもしれない。ネタはバレまくりなのでご注意を。

ローマのおじさんの話の長さに辟易した話。

 こないだ、美容院に行ってきた。

 ストレートとカラーとカット、フルコースだったので、長丁場になることは分かっていた。

 なので、本を一冊選んで持っていった。

 選んだのがこれ。

 

「人生の短さについて 他二篇」 セネカ著 茂手木元蔵訳 岩波文庫



 人目がある場所で読書するとき、私の場合はまず

「泣かない」

 これが第一条件になる。すぐ泣くからだ。

 何度も何度も読んでいる本でも、感動する箇所があると私は泣いてしまう。

「風が強く吹いている」とか、面白いんだけど、ところどころですぐ胸に迫って、涙がポロリと零れてしまう。

「星の王子様」もダメだった。伊坂幸太郎「死神の精度」も、惜しいけど却下。まあ死神が出てくるんだから必ず人が死ぬのであって、ウェットな話ではないんだけど、油断すると泣いてしまうからやめとく。

 京極堂シリーズは、面白い上蘊蓄にも溢れていて、あまり泣くネタはなく、適してるんだけども、いかんせん分厚過ぎる。そして重い。

 だから毎度、美容院のお供を選ぶときは、これでもない、あれでもない、と時間をかけることになる



 今回この本を選んだのは、こないだから私がハマっているマンガ「ミステリと言う勿れ」の中で、セネカの著書が面白い使われ方をしているからだ。

(待てよ、私もセネカの本、持ってたな…)

と思い出した。

 そんで、蔵書の中から引っ張り出して、久しぶりに読み返してみることにしたのだった。

 泣かなそうだったし。



 本好きではあるけど、残念ながら、私は博識ではない。

 セネカのことも、うすーい知識しかない。「哲人セネカ」として有名で、あの悪名高いローマ皇帝ネロの家庭教師をしていて、結局ネロのせいで死ぬことになった、気の毒な人……くらい。

 ただ、哲学の方面でセネカの名前は度々登場するので、「一度読んでおかねばならない人」くらいには認識していた。

 で、たまたま古本屋で目にして、お手頃価格だったので購入した。

 買ったものの、がっつり読み込んだ記憶はなかった。



「温故知新」という言葉もあるじゃないですか。

 ローマ時代の人の言葉が、書籍になって、今の時代まで残っているわけだ。

 残るには残るだけの理由があるだろうし、ここはひとつ、虚心坦懐になって、何かしら自分の養分になるものを得ようと、まっさらな気持ちで読み始めたのです。



大部分の人間たちは死すべき身でありながら、パウリヌス君よ、自然の意地悪さを嘆いている。その理由は、われわれが短い一生に生まれついているうえ、われわれに与えられたこの短い期間でさえも速やかに急いで走り去ってしまうから、ごく僅かな人々を除いて他の人々は、人生の用意がなされたとたんに人生に見放されてしまう、というのである。このような、彼らのいわゆる万人に共通な災いに嘆息するのは、単に一般の大衆や無知の群衆だけのことではない。著名な人々にさえも、このような気持ちが嘆きを呼び起こしている。それゆえにこそ、医家のなかでも最も偉大な医家の発言がある。いわく「生は短く術は長し」と。

 



 これが書き出しだ。なかなかいい。そう、その通り、我々はいずれ必ず死すべき身であるという運命を知っているはずなのに、一分一秒を惜しんで有意義に過ごす、ということをしていない。

「いずれは死ぬのは知っているけど、まあ、でも明日や明後日じゃないだろう」

と悠長に構えて、当たり前のように数年後の計画を立てていたりする。

 なるほどなあ。そこは大いに戒めねばならん。




 私はよく不思議に思って見ることがあるが、誰かが時間をくれるように求めると、頼まれたほうは、いとも簡単にそれに応ずることだ。両者の狙っているのは、時間が求められたゆえんの目的であって、時間そのものなどはどちらも狙っていない。いわば何でもないもののように求められ、何でもないもののように与えられる。何より尊いものである時間が、もてあそばれているわけである。そのうえ時間は無形なものであり、肉眼には映らないから、人々はそれを見失ってしまう。それゆえにまた、最も安価なものと評価される。それどころか、時間はほとんど無価値なものであるとされる。

(中略)もしも、各人の生きた過去の年数と同じく将来生きられる年数をはっきり知らせることができるならば、僅かな年月しか残っていないことを知った者は、どんなにか慌てることであろう。

(P25L9~P26L8)

 



 そうですね。セネカ先生の言う通り。我々は時間というものの尊さを知っているつもりでいながら、実生活ではないがしろにしがちだ。

 他人に頼みごとをする=その人の時間を無償でくれと要求することに他ならない。だから、「お時間を割いていただいてありがとうございます」という社交辞令が存在する。

 がしかし、「他人の時間を使う」ことの真の意味を理解している人は多いとは言えない。

 気軽に依頼する方も、気軽に応じる方も、どちらもそうだ。

 実は自分の人生が残りわずかだと知らされた場合、無為に費やした時間を後悔しない人がいるだろうか、という問いかけは、心に刺さる。




 要するに、彼らがどんなに僅かの間しか生きていないかを知りたくはないか。彼らとしては、どんなにか長く生きることを望んでいるか、見るがよい。老いぼれた年寄りたちは、たとえ僅かな年月でも付け加えるように願い求める。また年よりも若いように見せかける。彼らは嘘で自分を慰めており、また自分を欺いて喜んでいるのは、同時に運命の女神をも騙して喜んでいるかのようである。ところがやがて、死すべき人間の何かの脆さに気付くに及んで、彼らはどんなにか恐れおののきながら死んでいくことであろうか。

(P32L9~P32L14)

 



 ……………うーん、えーと、分かるけど、分かるんだけど、つまり「人生が短いのにそれを分かっている人があまりにも少ない」ことの例えですよね。

 それ、最初からずーっと主張していることで、それはもう分かった。ていうかもう32ページ目。

 同じことを別の例えで何度も繰り返し表現するのではなく、そろそろ次のステップへ行っていただきたいものだが……




 ところが、過去を忘れ現在を軽んじ本来を忘れる者たちの生涯は、きわめて短く、きわめて不安である。生涯の週末に至ったとき、何のなすところもなく長い間多忙に過ごしたことに気付いても、かわいそうに時はすでに遅い。また、彼らが時折死を願いことがあっても、それをもって彼らが長い人生を送っていると認める証拠にはならない。彼らは無知のゆえに不安な気持を起こすとともに、彼らの恐れているもの自体に突入せんとする気持を起こして悩む。死を恐れるがゆえに彼らは往々にして死を求めるのである。

(P46L14~P47L5)

 

 



……………話、長くね??



 もうそろそろ50ページだよ?

 1ページ目からずーーーっと、おんなじ話してるよね?

「人生は短いのにそれを認識していない人間があまりにも多い」

 ことの例えに、もう50ページ近く費やしてるよね?

 ていうかさあ、別に例える必要ないと思うんだけど、これでもか!というほど執拗に例えてくるよね?



 この辺りで、私の頭の中にはあるイメージが浮かんでいた。

 懐かしくも迷惑なあの思い出。

 そう、「全校朝礼の校長先生のお話」だ。




 うーん、うーん、何だろうなー。小難しげなことが延々と並べてある割に、一向に私の「中」に入ってこないんだな。

「若いとき私はこのような心得違いをしており、これこれこういう無駄な時間の使い方をしてしまった。今考えると大変愚かな真似だった」

 みたいな、自分の体験談なら分かるのよ。

 でもこの人、徹頭徹尾「人生の短さを心得ている賢い自分」の視点で「人生がいつまでも続くと思い込んで時間を浪費している愚かな一般市民」をけなしているだけなんだよね。

 こういう人いません?

「オレはね、分かってるんだよ。でもホラ、フツーの人はさ、分かってないじゃん。だからアイツら、こうやって間違っちゃうのよ」

とかって気持ちよさそうに若い人に説教垂れてるおじさん。居酒屋とかに。




 私は途中で本を読むのをやめて、指をはさんで閉じ、表紙を眺めた。

「人生の苦境にたちむかうストア哲学の英知に満ちている」とある。

 いや、実際満ちているのだろうと思う。が、浅学非才の私は、字間から英知を読み取るよりも前に、「マウントおじさんの説教センサー」が反応してしまって、内容よりもそっちが気になってしまうのだ。



(あーでもこの感覚、覚えがあるわ…)

と思い出した。

 学生時代、古典が好きで、教科書で習った枕草子とか徒然草とか、図書館で借りて読んだりもしたんだけど、兼好法師もなーんか全体に上から目線というか、説教くさくて好きじゃなかった。

 鴨長明もそう。あの有名な出だしは確かに語感がよく、インパクト抜群だけど、説教臭はぷんぷん臭っていた。

 元々身分が高くて、色々あって出家して、隠遁生活を送りつつ随筆を書いちゃうようなインテリゲンチャは、どうしてもこうなるのかもしれんな……と、ド平民で何者でもなかった一介の田舎高校生の私は彼らの作品に共感出来ず、以降よりつかなくなった。



セネカよ、お前もか……)

ですよ。

 この人も貴族だから身分は高い。色々あって相当苦労したみたいだけど、後の皇帝となるネロの師でもあったわけだから、社会的地位も高かった。

 こういう人が随筆を書くと、こうなっちゃうんですかね。

 ちょうどつい先日TBSの安住アナのラジオを聞いたんだけど、

「すべての随筆は全部自慢だ」

と言っていた。

「『枕草子』は『アタシの感性すごいでしょ?』と言いたいがための文章だし、『徒然草』は『俺の人を見る目はすごいだろ?』と言いたいのだ」

と断言していて、暴論ではあるけど、的を射ているなあ、と思っていたところだった。

 随筆に限らず、人の発言は大部分が「自分すごい」か「自分に構って」かどちらかが目的であることが多い、と、以前essayで書いたとおり。

 私は「枕草子」は好きですけどね。確かに自慢たらしいところはあるけど、清少納言の機知や瑞々しい感性が好き。

 でもマウントおじさんの偉そうな文章には共感できんなあ。




 セネカ先生とは気が合わないみたいだ。

 ていうか哲学の分野、興味を持ってトライしてみるんだけど、大概(コイツとは合わんな…)てなるんだよね。

 ニーチェもダメだった。




 今度から美容院には三浦しをんの小説でも持っていくことにしようと思いました。

 しをんさん、エッセイも面白いんだけど、エッセイは逆に笑っちゃうから美容院には不向きなんだな。

「美容院のお供」の本選び、なかなかに難しい。