お久しぶりの更新です。
えーと、ちょっと一身上の都合で色々ありまして、正直ブログどころではない状況でした。
それについてはまた今度。
さて、表題の件。
ちょこっと気になっていたタイトルではあった。
こないだ、アマプラを流し見していたらおすすめに出てきた。
(……ちょっと見てみようかな。遣都だし)
と、見始めはそういう、軽い気持ちだった。
これが、予想外によかった。
色々と考えさせられたのと、犬を取り巻く状況について私が常々思っていることとリンクして、心が動かされた。
以下、感想。
「犬部」というのは、実在したサークルのタイトルだそうな。
林遣都が演じた獣医師の青年・花井颯太も、モデルがいるみたいだけど、事実を基に作られたフィクションである。
ドキュメンタリーに比して、フィクションとは「絵空事」「作り物」のように捉えられることも多いけど、我々の生きる世界の「現実」の核の部分を抽出して、漉しとって、作品として見せるには、フィクションの方が鑑賞者の心に迫る手法であり得る。
その意味で、これは優れたフィクションだと思った。
犬が好きで、犬と見れば保護せずにはいられない花井颯太。
獣医師を目指しているのに、必須である外科研修を「受けない」選択をするのに迷わない。なぜなら、「1匹も殺さない」ことを目標としているのに、試験のために罪のない動物を犠牲にするのは、花井にとっては「ありえないこと」だからだ。
若者の理想はしばしば現実とは違う。大人が決めた「慣習」や「前例」や「きまり」によって、歪められたり踏みつけにされることもある。
だが、花井はそんなことでめげるヤワな青年ではなかった。こう、と決めたからには必ずやりとげる。
結局、動物病院に協力をあおぎ、実際の手術を間近で見せてもらうことで経験を積み、レポートを作成して、単位をもらうことに成功する。
一方、志を同じくするはずの親友・柴崎は、ここで花井と意見が対立する。
「俺はやる。獣医師になるために必要なことならやる。そして、その犠牲を一生忘れない」
と花井に告げる。
「昆虫大好き」のくだりでも書いているが、私は生き物が好きだ。
特に好きなのは猫。動物が好きな人なら分かると思うけど、猫好きの「好き」は、
「好きなおでんの具? んー、やっぱり大根かな。あと卵」
みたいなのとはわけが違う。
世に可愛い動物はいっぱいいて、ハムスターもシマエナガもパンダも全部全部
「可愛い~」
てなるんだけど、猫は格別。
岩合さんの番組かなんかで猫が
「ニャン」
て鳴くと、無条件で
「ニャン」
と猫語で返事してしまう。無意識にだ。周りに誰もいなくて、一人でテレビを見ているだけの状況であっても、だ。
傍から見たら怖い図だと思うが、それが猫好きというものだから仕方ない。
インスタでは当然、猫動画のアカウントを複数フォローしている。子守り猫が泣いちゃった赤ちゃんの涙を一生懸命なめてたりすると、
「おーよしよし、エライねえ。赤さんを守って立派だねえ…」
と、なんか知らんがこっちまで涙が勝手に出てくる。
現実世界で、そこら辺を歩いている野良猫に遭遇すると、(わー可愛い! 遊びたい!)て思うんだけど、猫にとっては知らん人間なんか迷惑でしかないから、お猫様の意志を尊重して、近づきもしないで我慢する。
「猫と遊びたい自分の気持ち」<<<<<「知らん人間に関わられるのがイヤなお猫様の気持ち」なわけだ。
ヘタに餌で釣るような真似も絶対にしない。飼えない動物を餌付けしたって、お互いに不幸でしかないからだ。
よく「犬派」「猫派」なんて言い方するけど、それで言うと私は問答無用で猫派だけど、どっちか一方だけを好きなんて人、稀だと思う。
片方を好きなら、もう一方も絶対好きなはずなのだ。同じ哺乳類の小さな命、人間を慰めてくれる愛玩動物であることには違いないのだから。
だから、猫ほどの熱量ではないけれど、犬だって好きだ。
だけど、街で犬を見かけて、(わー可愛い~)と無条件で思えないことも多い。
原因は犬じゃない。犬を飼う人間の側にある。
同じ一つの種なのに、犬ほど個体差が激しい動物、いないんじゃないですかね?
セントバーナードとチワワでは、大きさが違い過ぎて子孫を残すのも難しそうだ。何故かと言うと、言うまでもなく、人間が自分の便利なように品種改良を繰り返したからだ。
愛玩用に見た目をいじるのはいい。いや、よくないけど、そういうエゴは私は好かんけど、もうそうなっちゃったんだから今更どうこう言っても始まらない。
ただ、そうならそうで、その犬種の特性に合った飼い方をしなければならない、と思う。
というか、そんなの別にわざわざ論じるまでもなく、
「一緒にいる子の幸せを考える」
という、ごく当たり前の思考回路なら、当然そうなると思うんだけど、これがどうしてなかなか、そうはなっていない例をよく目にするのだ。
犬でも猫でも、長毛種をこの高温多湿の日本で飼うのなら、相応の対処をしてあげないと辛いにきまってる。が、まったく毛のカットをせず、長いまま、8月の炎天下の真昼間に散歩させていたりするから驚く。
犬を連れているご本人は、日傘にサングラスにアームカバーで、日差し対策は万全だったりする。犬がハァハァして足取りも重いのが目に入っていないらしい。
たまに、尻尾がない犬を見かける。断尾って言うんですってね。一体何だって、生きている動物の尻尾を切り取ったりするんですかね?? 意味がまったく分からんのですけど。
あれはボクサーだっけな、数匹連れて歩いている人を見た。見るからにお金持ちげ。立派な体格の犬は、全部尻尾がなかった。
(??尻尾がない…?)
と疑問に思ったとき、昔漫画で読んだことを思い出した。
ペットショップで血統書つきのお高い犬種をご購入されたのかもしれない。悪いが私には、切り取られた尻尾を気にもしないで飼える人の気がしれない。まあ、血統とか値段で家族となる動物を選んで「買う」という行為が、そもそも分からんのだけれども。
いっとき、兵庫の山奥ばかり訪ね歩く仕事をしていたことがある。
そこで、「幸せ」とはかけ離れた状況で飼われている犬をたくさん見た。
田んぼの脇の杭に鎖で繋がれて、これまた真夏の炎天下、ハァハァ息が荒く、明らかに熱中症になるぞ…という境遇の犬。
汚いステンレスのボウルに水だけ入れてあって、餌は見当たらない。小屋もなく、暑くても日差しを遮る物が何もない。
飼い主は、一体何だってこんな飼い方してるんだろう……と大いに疑問であった。
近づくと、そわそわと立ち上がり、一心にこちらを見つめて、尻尾を振るのだった。通行人が撫でてくれたり、おやつをくれたりするのかもしれない。
ほとんど野放しとは言え、他人の飼い犬に断りなく食べ物をあげるなんて出来ないし、うかつに手を出すこともはばかられるので、心は痛むけれども、黙ってそばを通り過ぎるしかなかった。
かと思えば、室内に閉じ込めて、外にほとんど出さずに飼っているケースもあった。お腹が膨れて黒ずんで、素人目にもよくない腫瘍が出来ているっぽかった。数センチ伸びた爪は途中で曲がり、外で歩く機会もないことが見てとれた。歩くのにさぞかし邪魔だろうと察せられたが、飼い主は、爪を切る手間さえかけるのが面倒らしかった。
言いたいことはたくさんあったが、呑み込んで、
「可愛いワンちゃんですね」
とだけ言った。(犬を「ワンちゃん」と呼ぶのは私の趣味ではないんだけど、犬を飼っている人はそう呼ぶことが多いので)
「あー……孫が飼ってた犬でな。孫は今東京やから」
とだけ、その老人は短く答えた。
つまり、孫が子供だったころに飼っていた犬を、大きくなって都会へ出て行ったあと持て余し、一応居場所だけは与えている、ということなんだろう。
だからってこの飼い方はないだろう…と問い詰めたかったが、そのときの私に出来ることはなく、黙ってその場を去るしかなかった。
もうホントこれは、声を大にして言いたい。
動物を飼うのなら、「健康で安らかな最低限度の生活」を保証して欲しい。
ちゃんと、栄養バランスのとれた美味しいご飯を供する。
安心して眠ることが出来るベッドがある。
その子に必要なケアが与えられる。
体調を崩したなら速やかに医療機関を受診させる。
私は、ペットショップで動物を「買う」ということはしないけど、そうして家族をお迎えする人はたくさんいるだろう。それを否定はしない。
ただ、入り口はどうであれ、飼ったのなら、それはもう「家族」でしょう。
家族なら責任持って、幸せにしてあげて欲しい。
人間の家族なら、イヤなら家出なりなんなりすればいいが、動物にはその選択肢はない。
それが出来ないなら、飼わないで欲しい。
何度も書くけど、私は重度の猫好きだ。当然、猫を飼いたい気持ちはある。めちゃくちゃ飼いたい。帰って、猫が「にゃ~ん」とお迎えしてくれて、お腹モフモフさせてくれて、じゃれて一緒に遊ぶことが出来たら、間違いなく私の幸福度は80%はアップすると思う。
だけど、飼わない。
なぜなら、私の今の状況が、猫を幸せに出来るものではないからだ。家を空けている時間が長い。ペット可の物件ではあるけど、家の中が猫仕様ではない。病気になったとき、惜しみなく医療費をかけてあげたいけど、そう出来るかどうかは心もとない。
なので、「飼わない」という選択をしている。
捨て猫とか、親とはぐれた野良の仔猫とばったり出逢ってしまったら、その子が私の助けがないと死んでしまうような状況なら、躊躇いなく家に連れて帰るけど、幸か不幸か、ここへ移り住んできてからそんな邂逅はまだ訪れない。
まあ、ここ、ド田舎ですぐそこが山、川の反対側が住宅地だから、野良には理想的な環境かもしれん。
人に飼われなくても幸せに生きていけるのかもしれない。
私には寂しいけど。
ぐすん。
動物を飼う人は、最初は皆「最後まで飼おう。この子を幸せにしよう」と思っているのだと思う。濃淡の差はあれ。
とは言え、環境が変わることもある。それこそ、主体的な飼い主が成長して就職し、土地を離れる、ということもあるだろう。
あるいは、世話が行き届いていたがゆえに動物も長生きし、飼い主が高齢になって、入院したり施設に入ったり…ということもある。
ペットのことがおろそかになりがちで、可哀そうに思いつつ、どうしようもない…という状況も起こり得る。
「ペットショップドリーム」のエピソードは興味深かった。
多頭飼いが過ぎ、近所から苦情が発生したとしても、本人には事情があるかもしれない。早い段階で行政が支援の手を差し伸べていれば、防げることもあるんだろうな、と考えさせられた。
人間、心の底から悪い人なんて、そうそういないんだと思う。
自分の生活でいっぱいいっぱいだったり、しんどい状況に負けたり。無知や怠惰から、虐待に近い状況を招くこともあるかもしれん。そのすべてを頭から否定することは出来ないし、責めたところで何も始まらない。
そうしたピンチに、頼れる仕組みがあれば、不幸な動物も人も、減るんじゃないかな、と感じさせられた。
花井先生のような獣医師や、柴田のような保健所の所長がもっともっと増えれば、人とペットを取り巻く状況も変わっていくかもしれない。
カマキリ先生のような生き物好きが、メディアで熱量を持って命の尊さを発信してくれれば、自分と違う命に対して真剣に向き合う子供が増えるだろう。そういう子は、大人になっても、生き物を無下に扱うことはしなくなるかもしれない。
我々は資本主義の社会に生きている故、店で動物が「販売」されているのを一概に否定は出来ない。
がしかし、生まれる命をすべて値札をつけて考え、利益のことしか考えていないペットショップ経営者やブリーダーは絶滅して欲しい。
特に犬だよ。遺伝病の遺伝子をそのままに繁殖させてるなんて頭おかしいでしょ。
法律を変えて取り締まるべき。
…と、このように、私が常々考えていたことと響き合って、色々と言葉が湧き出てきた映画だったのでした。
いい映画でした。
未見の方、是非。