おっさんずラブが好き!

ドラマ「おっさんずラブ」の細かすぎるレビューブログ。OLの深い沼にハマって当分正気に戻れません。ほぼおっさんずラブの話題しかないかもしれない。ネタはバレまくりなのでご注意を。

essay.7 怪物はどこから来るのか

 追記です。

 内容はネガティブです。

 メンタルに問題がなく、元気!と自信がある方のみ、読むことをお勧めします。

 念のため、ちょっと沈めます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 6章を費やして、自分の心の守り方について書いてみました。

 生きていくのは楽しい。でも同じくらい辛いこともたくさんある。

 自分一人で立ち向かわなければならない危機に直面することもある。

 そういうとき、心の持ちようひとつで変わってくることもあると思って、私が実践していることをシェアさせていただきました。

「シェア」と言っても、私からすると一方的に自分のブログに書いたに過ぎないので、「シェアされた」と感じた方がいらっしゃったら、なんらか反応をいただけると嬉しいです。

 既にいただいた方、ありがとうございます。書いた甲斐が少しはあった、と非常に励みになっております。

 

 

 一方で、人に危害を加える人についても、ずっと考えていた。

 どうなると、無関係の大勢の人の命を奪おうなんていう発想になるんだろうか。

 その延長上に、4章の「感情の部屋」の考え方が出てきた。

ktdmtokttn.hatenablog.com

 

 ああいう犯罪を犯す人と自分の間に、それほど距離はない、というのが、今のところ私の結論だ。

 ここからは、その先の話。

 

 

 私は、こうして書くほどには、自分で自分の心の守り方を知っている。ちゃんと育ててもらったおかげで、一人前……かどうかは分からないけど、一応独り立ちして、自分の面倒を見ることが出来る。

 だから多分、今後も何か危機に直面したら、自分でなんとかするだろうし、なんともならなければ、しかるべきところに「助けて」と言えると思う。

 まあ、自立した大人と言って差支えないんじゃないだろうか。

 

 

 しかし書いたように、これは親からちゃんと育ててもらったから一応「ちゃんとした人間」になれたわけで。

 では、親からちゃんと育ててもらえなかったらどうなるのか?という問題がありますよね。

 

 

 親から愛情を受けなかった、育ててもらえなかったと感じながら成長してきた人。

 家庭の状況によっては施設で育つこともある。そこの環境いかんによっては、やはり愛情の飢えが満たされない可能性は十分ある。

 失敗して怒られたとき、(自分が悪かった)と受け止めて反省するのだって、そうするよう矯正されるから出来るようになることであって。

 私が今それをまがりなりにも出来るのは、今まで何度も失敗して怒られての繰り返しがあって習得したからだ。怒ってくれた人のおかげ。

 心が幼いままで、ワガママにちゃんとつきあってくれる大人がいなかったら、怒られたらふてくされてしまう幼児性を一人で克服できるんだろうか。

 身体だけは育つけれども、バイト先とかで何か失敗して叱責され、人のせいにする人、いますよね。

 そのまま悪びれない人、怒られるのがイヤで人のせいにする人。

 それは心が弱いせいだ。人に怒られてもへこたれない芯の強さを育ててもらえなかったせいだと思う。

 それって、100%本人のせいと言えるんだろうか。

 

 

 でも、そんなヤツ、まともな人なら取り合わない。憎めない愛嬌があるとか、他のすごい特技があるとかならいいけど、そうではなく、人から注目されない地味なタイプなら、放っておかれるだけだろう。

 だから、その弱点が克服できないまま、失敗の経験だけを重ねることになる。

 こういう人なら恐らく、(悪いのは自分じゃない)てなるんじゃないですかね。他の人は、自分と比べて何でもうまくこなしているように見えるだろうし、楽しそうにも見える。その人が陰でしている努力とか、見えない辛さとかは、幼いから想像してみることが出来ない。

 すると、(自分ばかりこんな辛い思いをしている)と感じることになる。

 人が褒められるとイラっとするし、また失敗して怒られれば、(なんで自分ばかりがこんな目に遭うんだ)と憎しみが沸くだろう。

 

 

 普通に生きていても、こういう思いに捉われてしまうことがある。私たちはそれを「病む」という言い方をするけど、まさしく病気だと思うんですよね。

 で、上に述べたような境遇の人なら、ずっと「病んだ」状態におかれているのだと思う。

 寂しさと不満と、なにもかもうまくいかないことへの苛立ちを抱えて、でもどうすればいいのか自分では分からない。こういう人はきっと友達もいないだろう。

 毎日楽しくない。怒りをもてあまして周囲にあたる。壁に何かぶつけたり、大声でわめいたりする。ただ、そういう怒りの行動って自分をヒートアップさせるだけで解決にはならないから、もっと頭に血が上って、場合によっては外から苦情が来たりして、もっと怒りが増幅することになる。

 想像するだけで辛い。

 

 

 こうした鬱屈の先に、凶暴な事件があるのだと思う。

 

 

 無関係な人を大勢巻き込む悲しい事件が起こらないためには、こういう、社会からこぼれてしまった人を掬い取って救済するシステムが必要なんだと思うんですよね。本当は。

 ハズレの親の元に生まれてしまったらその後の人生が詰んだままなんて、惨過ぎるじゃないですか。

 人は誰でも、せっかく生まれたなら幸せに生きる権利があると思うんです。

 私が上に例として書いたような、ひねくれてて卑屈で、失敗は人のせいにする子って、まあなかなか好かれはしないと思うんだけど、「なぜこうなったのか」「このままだとどうなるか」を、考えなくちゃいけないんじゃないかなあ、と。

「お前、それじゃダメだよ」

と言ってくれる人、テレビドラマの熱血教師みたいにとことんつきあってくれる人と一人でも出会えれば、多分その後が全然違うと思うんですよね。

 

 

 で、産んだはいいけどまともに育てられない親の方も同じだ。産んだのに育てられないのは、人として心が未熟なのだ。それは本人のせいばかりじゃない。

 こういう人も、労わって代わりに育ててあげるとか、全面的に育児のサポートするとか、そういうシステムがあっていいじゃないかと思うんですよね。

 親ならちゃんとやれとばかり放置、すごく困っていても頼れる相手がなく、追い詰められて虐待事件が起こってから、今度は「人でなし!」とボコボコに叩くって、そりゃちょっとあんまり同情心ってもんがねえんじゃねえの……と、この社会が時折見せる無情さに心が冷える。

 

 

 海外に行くと、(うわー日本人て国民全員がちゃんとしてるわー)と感動する。

 一方で、この国は「ちゃんとしてない」人に対してすごく冷たいところがある。

 「ちゃんとしてない」人も、それだけで冷ややかに見たり放置したりしないで、共同体から弾かない視点というのが必要なんじゃないかと思うんですよね。

 

 

 じゃあそんな「システム」ってどんなのかというと、今のところ思いつかないのですが。

 私が1人で暮らしているところへ訪問員に訪ねて来られて、

「もしもーし、お一人ですか? 何か困ってることないですか? 最近何で怒りましたか? 友達いますか?」

とか聞き取り調査やられても困るんだけど。

 どうすればいいのかなあ。

 

 

 秋葉原や池田小ややまゆりや、ああいう事件が起こると、

(ええッなんで……!?)

と愕然とする。巻き込まれた無辜の人々の悲劇に胸が潰れそうになり、犯人に強い憎しみを覚える。被害者がそうだったように、出来るだけ苦しんで死ねばいい、と思う。

 思うけれども、それでは問題解決にならないのも事実なわけで。

(どうすれば防げるんだろう)

と、ずっと考えている。事件が起こってから大騒ぎして、犯人を逮捕して厳罰が下されたとしても、抑止力にならないことは明らかだからだ。

 でもなぜか、犯人の方に心を寄せて、なぜそうなってしまったのかという視点で事件を見る記事なり番組なりは目にしたことがない。

 でも、私が上で挙げたようなタイプの人、たくさんいると思うんですよね。事件を起こす犯人の全員とはもちろん言わないけど。

 そしてまた京アニの事件が起こってしまった。

 

 

 

 結論はまだ出てないんだけど、犯人たちを「特別な人種」と遠ざけて考えることでは、解決しない。

 彼らを怪物に育ててしまったのは、弱いものを排除し、なきものとして扱う、私たちの社会なのだと思う。

 

 

 

 こんなこと書いてるけど、私も全然公平な人間じゃないし、偏ってるし、電車でちゃんとしてない人を見るとちょっと遠い席に座ったりしてます。

 けども、子供を育てられない親は病気だから、共同体の全員で大事にして、子供もみんなで育てた、というような沖縄の昔話を聞くと、そういう場所なら、怪物は出ないのかもしれんなあ、と思う。

 弱い者は排除する、臭いモノには蓋をする、そういう構造の社会では、この問題は解決しきれないんじゃないかなあと、そう思っております。

 

 

 あ、ただ、私が考えているのは「システム」であって、個人として幼稚な人に対峙するのはまた別の話なので、混同されませんように。

 そういう人と関りを持って、相手が境界性の人格障害だったりした場合、選択肢は「逃げる」一択だから、「君子危うきに近寄らず」という教えは正しいんです。

 「心が育ちきっていない人を助ける」「ただし個人的な負担はなしで」この二つを成立させる名案はないものかしら。

 悩ましい。

 

 

 

 

 

 

映像研には手を出すな!【3】 恋愛しないJK漫画

 前章で、「映像研」は、オタク漫画なのに「オタク」という言葉が出てこない、オタクという概念が消滅した世界なのではないか、という仮説を書いた。

 「映像研」の世界にないものは、それだけではない。

 高校を舞台にした女子高生たちが主人公なのに、恋愛要素が一切出てこないのだ。



 今までジャンルを問わず色んな漫画を読んできたけど、高校生がメインで、恋愛要素がまったくない作品てあったかな?と記憶を辿るに、ぱっと思いつくものがない。

 少女漫画化でも恋愛ものが苦手な作家もいて、川原泉なんかその代表格じゃないかと思うけど、で「笑う大天使」は女子高生3人が主役でありながら、恋愛要素はほぼないんだけど、でもないことはない。お話中でLoveには至らないんだけれども、いずれ育つであろう恋の芽のような絆を描いていて、ラストはやはり「結ばれて家庭を作りました」となっている。

 思春期から青春期って、恋に興味が出てくるお年頃なので、恋愛がメインに据えられるのは当たり前であって、もちろん受け取る側もそれを娯楽として消費するのがお約束だ。

 だけれども、クラス一、あるいは学年一と呼び声の高いイケメン男子と恋に落ちるだとか、勉強は出来ないけど顔は可愛い女の子が主役だとか、そういう作品を数多く読んでいると、次第に「高校(大学)に行けば漫画みたいな恋愛が自然に始まるのだ」という思い込みが生まれることに繋がる。

 すると、リアルで恋愛が生まれない人たちは、(全然モテない自分はどこか欠陥があるんじゃないか)と劣等感に苛まれることにもなりかねない。

 実際、ファーストキスがいつだとか、初体験がいつだとか、雑誌で特集組まれたりしていた記憶がある。

 なんかもうドラマもバラエティも「年ごろの男女は必ず恋愛するものだ」という前提で作られていたような気がする。

 それも社会のシステムとして分からないでもないんだけど、やはり、人の価値が「モテ」と「非モテ」に分けられるような風潮は、違うんじゃないかなあ、と思います。




 バスケ部の入部人口を劇的に増やしたと言われる「スラムダンク」も、主人公桜木花道は晴子さんに切ない思いを寄せているし、女子からキャーキャー言われる流川楓に嫉妬する。

 異色なところだと「寄生獣」なんかがあるけど、やっぱり主人公シンイチは彼女がいて、男女の営みもしっかり出てくるし……

 まあでも私が漫画に造詣が深いかと言うと、全然そうではないし、知識も古いので、高校生がメインだけど恋愛要素ゼロだよ!という有名作品もあるのかもしれない。もしそうならご勘弁を。




 まあそれはともかく、「映像研」は、メインの3人が、まったく恋バナをしない。恋に発展しそうな相手キャラすら登場しない。

 出てくる男子生徒と言えば、ロボ研の部長とか部員とかだけど、完全に脇キャラ。部長はみどりと張る超オタクキャラとして描かれていて、他の役割はない。

 恋愛に一番近そうなキャラは、カリスマ読者モデルとして描かれる水崎ツバメということになるだろうが、彼女もまた、男女問わず人気があって、よく握手を求められている場面は描かれるけれども、男子生徒から告白されたとか、プレゼントをもらったとか、今までの漫画だったら確実に出てきそうな描写は一切ない。

 「映像研」の世界にないのは、「オタク」の概念だけではなかった。

 「モテ」と「非モテ」という区別もない。

 少なくとも作中では描かれない。




 私が最初に(あれ?)と引っかかったのが、水崎ツバメというキャラの描き方だった。

 読モ出身のモデルで、モノレールに乗れば一面ツバメの広告でジャックされているくらいだから、相当美人なのだと予想される。加えて、両親とも俳優で、庶民であるみどりたちとは桁違いのお金持ちであるらしく、途中出てくるツバメの家はプール付きの豪邸だ。

 が、みどりたちと金銭感覚の違いを実感する会話は出てくるものの、それが彼女たちの間にヒエラルキーを生むかと言うと、そんなことはない。

 みどりが「お年玉をはたいて買った!」というリュックの値段を、ツバメが「10万円くらい?」と予想し、みどりが「いえ、手前どもは庶民ゆえ、2万5千円です」というやり取りがあるんだが、みどりがツバメと自分を比較して特別落ち込むということもないし、ツバメもツバメで「そっか」と飄々としている。

 映像研が同好会として始動したあと、ツバメが家から300万円相当のソファを持ってきて、そこがメンバーのくつろぎスペースになるんだけど、みどりが「300万円」という価格に動揺する描写はあっても、ツバメとの境遇の違いに怖気づいたり、萎縮したりする様子もない。

 そもそも、みどりやさやかの容貌についても、まったく触れられないのだ(ツバメの可愛さについても誰も何も言わない)。

 容姿に関して言及されるのは、ツバメが「金森さんて足長いよね」と金森さやかに言う台詞だけだ。

 それに対しても、さやかが特に謙遜するでもなく、「寝る子なので育ちました」と不愛想に答えて終わっている。

 つまり「映像研」では、「アニメを制作すること」この一点のみに集中してすべてが描かれ、これまで多くの漫画が描いてきたような、恋愛の胸キュンや、女子同士特有の関係性や、実家の経済状況、学内での人気、容姿の美醜、学業の成績、そういったものが生み出すヒエラルキー等も、一切排している、ということになる。




 まあ普通の漫画ならさ、冒頭、浅草みどりにおやつを買ってきた金森さやかが、「お釣りは?」と言われて「手間賃として接収しました」と言った段階で、ケンカになると思うんだよね。でもならない。「まさか私を無賃金で労働させようと思ってたんすか」とさやかに言われて、みどりはしゅんとして「考えがあまかったよ」と譲歩する。

 アニ研上映会に行きたいんだけど一人で行けないみどりが、さやかに条件付きで「一緒に行ってほしい」と頼む場面が続くのだが、

「浅草氏って連れション文化圏の人間でしたっけ?」

と、このさやかの台詞が、私がこの作品に刮目した最初の場面となった。

 そう、正直言うと、この台詞がこの作品の肝をすべてあらわしていると思ったんだけど、それをどう言葉にしていいか分からなくて、書きだすのに時間がかかったんですよね。




 そう! 小学校・中学校と、女子生徒の間には独自の文化が存在する。

 そのうちの一つが、「休み時間トイレに一緒に行く」という風習だ。「ね、トイレ行かない?」と声をかけあって女子トイレに赴く、アレが、私にはどうにも理解出来なかった。

 だって、生理現象だよ? 人に合わせる必要ある…? しかも一緒に行って、音を気にしながら排泄するって、何の罰ゲームなん???

 でもアレ、好きなんですよねー。「女子」の人たち。この手の風習を疑問に思わない人たちは、昼ごはんも一緒に食べようとする。仲良しで、他に用事がないなら一緒に食べればいいと思う。そこに異論はない。でも、何か用事があって「先に食べててね」と言っても、食べずに待ってたりするんだ。

 なんで?? なんで待つの?? 一緒に時間を過ごすだけなら、食べ始めを合わせることないじゃん?? 先に食べられたって気を悪くしたりせんよ!!

 ……でも、こういう人たち、羊のように頑固で、ともかくも「一緒に合わせる」ことに偏執していた。

 これは女子特有の性質だと思いますね。そして私はそれが大嫌いだった。

 あ、そう言えば、中1ではこの風習に従えという同調圧力が鬱陶しかったけど、中2で一人修業を経たのちに仲良くなった友人たちは、私のこういうところも笑って受け入れてくれる人たちで、「自分たちは一緒に行くけど、朔ちゃんは好きに行きな」というスタンスで、大いに居心地がよくなった。




 これを一言で「連れション文化圏」と切って捨てた金森さやか

(うおッそうそうそうそう! ソレな!!)と、めちゃくちゃ痛快に感じたのでした。

 うーむ、私はこの作者をよく知らないけど、この言葉が登場するということは、やはり上に挙げたような「恋愛要素のなさ」「女子間ヒエラルキーの無存在」も、あえてそうしたような気がしますね。

 あーだから、「連れション文化圏」を不思議に思わないまま大人になって、例えば旅行に行っても単独行動を出来ないタイプの人は、この作品のよさや痛快さは分からないかもしれませんね。大人になって付き合う相手を選べるようになった今では、そういう人が知り合いにいないので、よく分からないけど。




 そうか、ツバメほどのお金持ちで美人の読モでも、全然浮かないこの世界では、人種なんか差別の対象になるわけもないのか。

 途中で登場する音響部の百目鬼(どうめき)氏は、見た目が金髪・肌は浅黒く、人種がよく分からなかった。生徒会の口が達者な書記もそう。アフリカ系の血が入っているような容貌だ。でも、誰も特にそれについて言わない。

 百目鬼さんは下の名前が「パーカー」と言うそうなので、両親のどちらかが海外ルーツなんでしょうね。でもこのお話には全然関係ないので触れられない。

 あとね、「音」ハンティングにみんなで出かける場面があって、百目鬼さんは音響部だから、映像研に協力している立場ではあるんだけど、この3人+百目鬼氏という集団で考えると、「新参者」でもあるわけじゃないですか。

 でも、百目鬼氏は水崎ツバメに「水崎さん、その服ウルサイ」とさらっと言うし、言われたツバメも「マジか」とシャカシャカ音がするジャケットを脱ぐ。

 上下関係も一切、ほんとーうに一切!ないんですよ。

 上下関係と言えば、顧問の先生も、パンチパーマでグラサンかけて自分の私情でしごきまくる……なんていうこともなく、必要なときだけふらっとやってきて、手を差し伸べて、それだけだ。

 



 だから、(なんという自由な世界だろうか)と、私は「映像研」が描く新しさに感動を覚えたのだった。

 誰もが対等で、他の余計なものにわずらわされず、ただただ好きなものに打ち込む世界。

「アニメを作る」こと以外の要素は一切排除され、登場人物たちは自分が作り出すアニメ世界の中で生き生きと動き回る。

 ものを「創る」とは、なんと自由で、可能性に満ちた作業だろうか。




 人間の煩悩のすべてを詰め込んで作られた「有閑倶楽部」のような世界もいい。生徒会メンバーは全員、度外れた金持ちばかりで、頭脳と美貌と身体能力に恵まれ、学内ヒエラルキーのトップに君臨する。あれはあれで、フィクションとして楽しい。

 けれど、創造のエネルギーの他一切を排して描かれた「映像研」の世界、新しい上、私は非常に清々しさを感じる。

 恋愛も、人間関係のすったもんだも、そんなものなくても、十分面白い作品は作れるということだ。




 ……ということに、「少女の呪縛」について書いたことで、気づくことが出来たのでした。

「映像研」にはこの呪縛がない。まったくない。

 そこから、「ない」ものを数えることで、「映像研」のレビューが組みあがっていった。




 あと1章続きます。

essay.6 自己肯定力

 「おっさんずラブ」レビューで、牧くんと私はツンデレ属性とかツッコミポイントとタイミングとか、色々似ているところがある、と書いているけれども、一点でまったく異なる。

 それが「自己肯定力」だ。




 落ち込むとき、自分という人間の価値が信じられなくなってしまうとき、(もう私なんて迷惑かけるだけだから消えちゃった方がマシなんじゃないかな…)という気持ちに捉われてしまうとき、それは私にもある。

 そういうとき、自分を守ってくれるのが「自己肯定力」だと思う。

(消えちゃったマシなんじゃないかな……)と思っても、しばらくすると、(……いや、そんなこともない)と思える力。

 私はそれが強い方だ。多分、かなり強力だ。

 めちゃくちゃ落ち込んでも、1時間くらいしたら、(……まあこのくらい反省したならもういいんじゃないだろうか)と、反省した自分を認めてあげたくなる。

 一晩寝て起きるころには、(いや多分私がいないとこの先日本が困るだろう)くらいには回復してしまう。




 自分で自分のことを(大丈夫)と信頼する力、それには根拠なんてないのだ。

 まったく根拠なく、「私は大丈夫」と言い切れる、これを自己肯定力と呼ぶ。

 これがあると人は強い。マジで強い。最強のアイテム。

 何か失敗をやらかすことは未だに多々あるんだけど、やらかすと、(まあでもしてしまったものは仕方ない)と思う。くよくよ思い悩むより、どうするのがベストかを考えた方が時間の節約になる。

 例えば仕事で何か過失があったとして、自分で取れる責任なら負うし、悪かったことは潔く認めて先方に誠実に謝罪する。

 取り返しがつかなかったとしても、死ぬような羽目になることは滅多に……いやいやまずないから、最悪でもクビだ。そうなったら次の職を探すしかなくなるわけですが、年齢も年齢だし、次の職が見つかるか?とここまで考えが及んだときに、(まあ、大丈夫だろう)と思える。

 もしかすると大丈夫じゃないかもしれないけど、それは大丈夫じゃなかったときに考えればいいことだ。

 今から考えてもどうしようもないから、考えないでおく。

 



 自己肯定力を高く保つにはどうすればいいのか、ひとつには、「価値の基準を自分の中に持っておく」このことが大事だと思う。

 他人からの評価=自分の価値になってしまうと、苦しむ結果になることが多いような気がする。

 「〇〇さんより隣のA子ちゃんの方が可愛いよね」なんて陰口を聞いてしまったら、落ち込んでしまうだろうけど、(いーやあたしはA子ちゃんより自分の方が可愛いと思う)とか、(顔はそうかもしれないけど人の価値は容貌の美醜にあらず)と思うことが出来れば、不必要に落ち込まなくて済む。

 物事って全部捉え方ひとつですからね。




 ただ、そもそも自分を肯定する無根拠の感情はどこから来るのかと言えば、こればかりは自分で得たものじゃないんだな。

 子供時代に、無条件で認めて愛してくれる人がいたかどうかだと思う。




 私が幼かったとき、母はよく「私の世界一大切な娘」と私を呼んでぎゅっと抱き締めてくれた。「とっても大事だよ」「大好きだよ」と愛情を伝える言葉は惜しみなく注いでくれた。

 私のこの、溢れるような、何なら人に売るほどある「万能感」は、幼い頃の母からの愛情によってきたるものだと言い切れる。

 もうこれこそが私が生きていく上での財産だし、この自己肯定力がある限り、多分この先も私は大丈夫だと思う。

 この点では、母に感謝してもしつくせない。



 だけれども、子供時代、保護者から無条件の、かつ無償の愛を得られたと感じずに育った人は、不幸にして少なくない。

 そうすると、どうしても自己肯定力が低くなってしまう。私も友人にそういう人がたくさんいた。

 そういう人が、自己肯定力を高くするにはどうしたらいいかについては、私は分からない。そこで困ったことがないからだ。

 無条件で愛してくれ、まるごと認めてくれる人がいればいいんだろうけど、他の方法はないのかな。
 私のように、未婚独身で子供もいないとなると、ペットを飼ったりするんだろうか。

 

 では、自己肯定力は強ければよくて、それを持っている私はALL OKで毎日ハッピーかと言えば、そんなことはない。自己肯定力が強いと、「自己評価が高い」ことに繋がる。これは、あんまりいいことではありません。

 私は、当の母からも

「なんでそんなに自信満々なの?」

と言われる。

 今の職場の上司にも何回も言われたなー。(まあ、大丈夫だろう)が悪い方に働くと、物事を侮って、後から痛い目見るんですよね。

 でも何しろ(大丈夫だろう)に根拠がなく、思考の癖なので、何回も同じ失敗をしてしまうんですね。

 何事もほどほど、ですよ。

 お蔭様で私も自分のやらかした失敗に鍛えられて、今では随分自分のことを相応に評価できるようになったと思います。……と信じたい。




 だから逆に言えば、自己肯定力が低い人は、自分に自信がない分、私のようなタイプよりも真面目で丁寧かもしれない。仕事においては、むしろその方がよい条件にもなり得る。

 日本は、あまり愛情を言葉で表現しないし、昔は関白親父も多かっただろうし、ただ単に親の愛情が子供に分かり辛かったという理由で、子供が自己肯定力が低いタイプに育ったとか、そういうことはありそうだ。うちの親は特殊ケースだと思う。

 自己肯定力が低いことは、決して悪いことではないと思います。

 ただ、なにかピンチに陥ったとき、(自分のせいだ。自分なんか消えてなくなればいい)と、自分を責めすぎる方向に作用するのがマズイというだけで。

 私は、周りに気配りが完璧でも、自分を責めて落ち込みがちの人よりは、多少周りへの配慮が欠けていたとしても、自分を責めない人の方が、心としては健康なんじゃないかと思う。ちょっと語弊はあるけれども。

 どうせ人生辛いことなんかたくさんあるんですよ。自分でわざわざ自分をいじめなくてもいいと思うの。




 さて、

「人からなんと言われようと自分を否定せずにいられる方法」

 というお題に対して、管理人的結論は、

 

①人から何か言われて落ち込む事態を想定してシミュレーションしておく

②相手の言葉が正しいかどうか疑ってみる視点を持つ

③他人からの評価でなく、自分で自分に価値がある、と思い込む

④もし可能なら、いざというときに備えて精神的な鍛練をしておく

⑤自分で自分をよく観察しておく

 

 ていうことですね。

 ひっくるめると、「自分の頭でよーく考えよう」ということです。

 

 

 あくまで、私が考えて、自分で実践していることです。

 このお題に対しては、100人いれば100通りの解が存在するでしょう。

 私は一人でいるのが好きで、自己完結型の思考だからこうなってるけど、例えば「普段から味方をたくさん作っておく」とか、そういう人もいそうだ。




 以上でございます。

 特にどうということもない、自慢できるようなポイントは何もない、処世術というのはあまりにもささやかな、私の人生の過ごし方でございます。

 だけれども、ともかくも人生を「楽に! 少しでもイージーモードに!」と考えて、編み出してきた技でもあるので、もしかして何か行き詰まったり、しんどい思いを抱えている人に、なにかしら参考になるようなこともあるかもしれない。

 そんな思いで、書いてみることにした次第です。

 

 

 長々とおつきあいいただき、ありがとうございました!

essay.5 汝自身を知れ

 ソクラテスの言葉と思っていたけど、違うんですってね。デルフォイの神殿の入り口に書かれている言葉だそうな。

 私の座右の銘はこれです。

 今のところ、変更する予定はない。



 一人の人間が知ることの出来る量って限りがあって、知ることが大好きな私にとっても、周り中知らないことだらけだけど、でもやっぱり「分かってないことNo.1」と言ったらもう「自分自身」これですよ。

 前章で、感情のコントロールが重要、という内容を書いたけれども、つまりは自分がどの感情の部屋のスイッチが入りやすいのか、自分で把握しておく必要がある。

 でもこれがね、分かってないんだな。意外と。自分で思っている以上に。



 他人のことはよく分かるじゃないですか?

(あ、あの人、自分のことを頼りがいのある男と思っているし、周りからもそう思われてると思い込んでるな)

とか。

 しかし実態は自分を大きく見せるのが好きな小心者で、他人へのダメだしはドヤ顔でするけれど、正論で反論されると途端にビビり、逆ギレする……とかね。

 同じように、自分に対しても、俯瞰で見て、公平で辛辣に見ることが出来ればいいけれども、それが出来ている人は少ない。

 やっぱり、「こう見られたい自分」を見てしまうんですよね。

 人間の脳は、自分に都合のよいものだけを見ようとすることにかけては天才的なのです。自分ちで鏡で見た自分の姿は、だいぶ補正しちゃってるからね。真実を見たければ、写メ撮って見るのが一番だ。



 まあでも今はそこじゃない。この文章を書く目的は、他人から見られる自分と、自分の理想像を一致させよう!ということではない。

 脳は割と騙しや引っ掛けに弱いから、自分で思い込んでいる「自分」像は、真実とは違うものであるという事実をまず、前提として覚えておく必要がある、ということで。




 人生を楽に生きるためには、「怒り」「悲しみ」といったネガティブな感情から呼び起こされるストレスは、出来るだけ軽減したい。

 そのためには、自分が何に対して怒るのか、何を悲しいと思うのか、それを把握しておいた方がいい。

 例えば私は、「ブス」と言われてもそれほど怒りは感じないんですね。人から容姿をどう見られたいというこだわりがあんまりないし、まあ正直美人ではないので、(あーまあひとつのご意見ですね)と思う。で、そんなことを他人に向かって言えるような品性の持ち主は、別に友達になりたくもないから、(そんな奴にどう思われようとどうでもいいわ)とさっさと「処理済」の箱に移すことが出来る。

 どうせなら、「言われる」→激おこ→落ち込む→ストレスを癒すのに必死になる→なんとか平静を取り戻す→「処理済」箱行き となるよりかは、「言われる」→「処理済」箱行きと、さくっと済ませた方がエコじゃないですか。そんなくだらないことのために使う私の有限のエネルギーが勿体ない。

 ところがこれが「バカ」だと話が違う。まず、むっとする。(この私にバカって言えるってことはそちらさまは大層頭がおよろしいんでしょうね)と、一瞬でこのくらいの温度にぐぐっと上がる。

 ということは、私にとっては、「バカ」と思われるのが屈辱、ということだ。

 つまり、私は自分で自分のことを「バカ」と思っていないし、なんなら「ちょっと利口」くらいに思っている、ということだ。



 で、大事なのはここから。

「バカ」と言われてかなり頭に来る私、自分でどうやら「利口」と思い込んでいる、と気がついた。

 さあ、そこであの技ですよ。(本当にそうか?)と自分に問い直してみる。

 書いてて笑えてくるけど、まあそんなことはないよね!笑 「バカ」にも色々種類があるけど、私なんて本当に偏った人間だし、「バカ」と言われても仕方のない愚かさは十分持ち合わせがある。

 すごく気を許した友達に「朔ちゃんてバカじゃん?」て悪気が120%なく言われたこともある。あ、これはこの友達が正しかったんですよ。私はバカだから後から意味が分かったけど。

 で、こう自分を捉え直すと、「バカ」と言われて一瞬で沸騰するような事態は、再発を防ぐことが出来るわけです。

 相手がどういう意味で言ったのか、その場の流れとか文脈とかあるからね。悪意で私を貶めたいと思って言った言葉なら、そこで改めて対処すればいい。




 誰かに対して、(なんか不愉快だな…)とか、(理由はよく分からないけど嫌いだ)と感じることもありますよね。

 ただ単に相性が悪いということもあるけど、私はそういうときも、(なぜこの相手を不快と感じるのか)と、自分の中を掘ってみることにしている。

 ちょっとイヤくらいなら無視すればいいし、関心を持たなければいい。でも、その相手に注意が向かってしまい、結果不快だと感じるのなら、相手の何かに反応するものが自分の中にあるということだからだ。

 で、意外とあるのが(自分に似ている)ということなんですよね。同族嫌悪というやつです。

 まあ、自分にトラウマを与えた人間に似ているとか、そういうケースもあるけども。

 タレントの誰かの悪口とか、めちゃくちゃ言ってる人がいるけど、それするくらいだったら、その人を嫌う自分を分析してみる方が有意義なんじゃないかな…と思う。

 あと、傍で聞いている私は(ふむふむ、きっとこの人のコンプレックスがこういうところにあるんだな)と、悪口を声高に言い立てる人自身を分析しながら聞いてます。



 悪口を言うのがよくない、と言ってるのではないので、誤解なきよう。

 あくまで、「自分の中のネガティブな感情をうまく処理してストレスを減らす」にはどうしたら有効か、という話です。

 午後のお茶のお茶うけ的に旦那さんの悪口大会で盛り上がってスッキリ!みたいなのはストレス発散に全然いいし、前述のタレントさんの悪口だって、別に本人に聞こえないところで言う分には大した罪はないと思う。

 誰かを口を極めて罵るのって、面白いですよ。私は的確でキレのある皮肉を効果的に使える人が大好きだ。

 あ、そんで、いちいち断るまでもありませんが、もちろんあくまで「悪口」であって、「誹謗中傷」とはまったく違うものなので、そこんとこよろしく。




 あと「怒り」に関しては、義憤というものもありますからね。不正なこと、酷いことに対して怒ってしまうのは、正しい怒りだ。そして、その状況を打破するためには必要なエネルギーだ。「悲しみ」もそうですよね。

 退けてはいけないストレスもある。





 自分に関して、「自分の本心を知っている」人が、案外少ないという実感がある。

 私は、人生の岐路に立ったと感じたとき、割とフィーリングで決めるんですよね。あんまり計算とか出来ないんだ、そういうとき。

(どうする? どっちに行きたい?)と自分に聞く。自分にというか、深い部分の自分の「核」と言うか。

 楽しそう、面白そう、わくわくする、やってみたい、そういう高揚というか、ときめきを感じたら、そっちへGOだ。

 あのー、アレです。地下水の水脈を探すときのダウジング。ああいうイメージ。



 そういう本心て、抑圧してしまうのはよくないと思うんですよ。押しつぶすと、腐る。嫌な臭いを発する、真っ黒な何かになる。その人の明るい部分を曇らせ、口からネガティブな言葉があふれるようになる。で、ついには自分自身の心が分からなくなってしまう。

 ブラックな職場で働いている人、義実家との軋轢で心をすり減らしている人、結婚前と様子が変わってしまった配偶者と愛のない生活を続けている人、自分の本心を封じて生きている人は多いな……と感じる。

 



 自分の本質を知り、抑圧することなく、のびのびと生きることは、「幸せ」の絶対条件だと思うです。

 そういう意味では、「自分自身を知る」ことが、つまりは「自分を大事にする」ことに繋がると思うです。

 ハイ。




 次、ラスト。「自己肯定力」について。

essay.4 感情の部屋

 人の行動を見て、「あの人、なんであんなことするんだろう?」と不思議に思うことはよくある。

 ただ単に不思議に感じるだけのこともあれば、奇妙に思うこともあるし、不快になることもあるだろう。

 その最たるものが、ニュースで報道されるような事件を起こす犯人、ということになる。

 家族を殺したとか、自分とまったく関わりない通りすがりの人を攻撃したとか聞くと、

(一体全体なんだってそんなことをしたんだ…?)

と、分からな過ぎて考え込むことも多い。



 私にとってそのトップが、地下鉄サリン事件を始めとした一連の事件だった。

 エリートと呼ばれるような人たちが、何故あの集団に入って、あんな事件を起こしたのか。

 不可解だったのは、事件後もなお、あの団体に入る人たちがいたことだ。

 カルトと呼ばれる宗教には、人を惹きつける求心力がある。



 身近にある危機としては、オレオレ詐欺なんかがありますわね。

 報道を聞いていると、「なんで信じちゃうんだろう?」と疑問を感じる。自分だったら、すぐ不審者に気づいて、個人情報は出さないし、警察に通報するだろう、と思う。

 



 こういう事件が起こるたび、(どうすれば防げるだろう)と考える。

 これらの出来事を、(自分は関係ない)と思ってしまうのが、多分もっとも危険なことなんだというのが、私の持論だ。

 他人事ではない。



 例えば殺人なんて、普段の自分からは縁遠いことだと思う。

 けれど、振り返ってみるに、殺人事件は毎年起こっているし、1カ月に世界中で起きる殺人を数えたら、そりゃもう2件や3件じゃないでしょう。

 ありふれた事件なんですよ。そして、事件を起こした人たちが全員、「殺人犯」という特殊な性質の持ち主だったかと言えば、多分そんなことはないんですよ。

 ごく普通の人が、たまたまある状況に陥って、殺人を犯してしまったケースは多々あるんだと思う。統計的にどうかは知らないけど。

 だから、殺人を犯した人と、自分との間には、恐らくそれほど距離はないのだ。



 今まで生きてきて、誰かを殺したいと思ったことがあるかどうか?

 私はある。何度もある。反抗期が激しかったころ、母に正論で論破されてぐうの音も出ず、そのすぐ後眠ってしまった寝顔を見ながら、(今この距離からダンベルを頭に落としたら死ぬかな)と思ったことがある。

 前の職場のクソ店長に理不尽に詰められているとき、(今ライフルがこの手にあれば躊躇いなく撃つな)と思ったことも何度もある。怒られながら、部屋にいる全員撃ち殺した後の逃走経路まで考えていた。

 私の中に殺意のスイッチはある。ただ、実際にライフル銃の持ち合わせがなかったので、実行に移せなかっただけだ。母の場合も、他の諸々考えて実行しないでいるうち、怒りがおさまってきて、(まあ、やめとこう)てなっただけだ。




 思うに、誰の中にも、様々な感情の部屋があるのだ。楽しいとか、嬉しいとか、悲しいとか、嫌だとか。怒りなら怒りで、ムッとする程度だったり、プリプリだったり、憤怒だったり、段階と程度がある。

 大きな建物の警備室で、防犯カメラに映った映像を映し出すモニターが無数にあるやつ、あるじゃないですか? 私の中ではああいうイメージだ。

 よく使う部屋は、スイッチが入りやすい。スイッチが入るとその部屋が明るくなって、主人格が自覚する。

 自覚したことがないからといって、その感情が「ない」わけではないのだ。使う機会がなく、スイッチが入ったことがないから、知らないだけで。

 モニターを見ているのは、健康な場合には「理性」だろう。理性がちゃんと働いていれば、「殺意」の部屋にスイッチが入りそうな場合には、(いや、いかんいかん)とスイッチをオフにする。

 私のように、「殺意」の部屋に度々明かりが灯るようなタイプは、経験から、早めにスイッチを切ることが出来るようになる。



 で、多分、「殺意」の発動に繋がるにも、それと関連する様々な感情があるんだと思う。自分を大事に思う自尊心だったり、殺意を向ける相手の家族が悲しむだろうという想像力だったり。そこが健全に働いていれば、発動には至らない。

 実際に殺人を犯してしまった人は、「殺意」の部屋のスイッチをオフにすることが出来なかったんだと思う。発動を止める機構も、うまく働かなかったんだろう。




 ここまで書いてきたように、私は自分の周りの問題を「自分の頭で考える」ことで解決しようとしてきた。この方法で、今のところうまくいっている。

 私も大概怠け者だけど、ここだけは怠けちゃいけないところだと思っている。

 でも、いわゆる学校のお勉強が出来て、成績優秀で通ってきた人たちの中には、この「自分の頭で考える」ことが苦手なタイプが、一定の割合でいる。

 こういう人たちが人生の危機に陥ったとき、数学の問題集に解答があるように、「この危機をたちどころに解決する方法」の答えが、どこかにある、と考えるんじゃないだろうか。

 で、「ホラ、これが答えですよ」的なモノが、世の中にあふれているわけだ。そのうちの一つがカルトな宗教で、「自分より正しい誰かの教え」を信じることで、「正解」に近づけるような気がするのだと思う。

 心の安寧を得るのに有効で、てっとりばやい手段ではあるけれど、やはりこれは、リスクがある方法だと思う。その「誰か」とは、正しいか正しくないかは別として、自分とは違う他人なわけだ。で、感情の部屋のコントロールを、自分でない他人に委ねることになってしまうからだ。

 あのオウムの事件は、そういう人たちの集まりだったんだろうなあ、と私の中では解釈しております。

 あ、でも、宗教は、正しく作用すれば人生のよい指針を与えてくれると思ってますので、宗教を信じる人を否定しているわけではありません、念のため。

 

 



 自分には理解できない他人の行動を、自分とはまったく無関係で、(絶対にあんなことやるわけない)と思ってしまうのは危険だ。危機はいつも前触れなく訪れる。そのとき、今まで使ったことのない感情の部屋のスイッチが入ることだってある。初めて経験する荒々しさ、照明は毒々しい赤、頭の中いっぱいに大音量のアラームが響き渡り、コントロールの方法が分からずパニックに陥ってしまい、我を失って思いもかけない行動に出る……ということになりかねない、と私は思う。

 どんな人の中にも、あらゆる感情のスイッチはあるのだと想定して、「危険な感情に捉われた場合にどうやってそれをオフにするか」を学んでおくしかないんじゃないだろうか。

 例えばやまゆりのあの事件だって、悲劇を悲しむだけでなく、「どうしたら再発しないか」を考えなければならない。

 身体を満足に動かすことが出来ない、身体的に弱い人を見下す気持ち、どこかバカにする心、誰の中にもある。私にだってある。

 それはもう仕方ない。人とはそういう生き物だ。

 だけど、(もし自分がそうなったら)という想像力や、自分の意志でなくその状況に置かれている人の気持ちに思いを馳せる共感力があるから、差別心のスイッチをオフに出来る。

 そうして、「誰でもがあの犯人の立場になる可能性がある」という方向で考えないと、再発は防げないと思います。

 あの事件、ビックリしたけど、初めてじゃないもん。秋葉原のアレも、津山30人殺しもまったく同じ構造だ。京アニもそう。

 ああいう事件が起こると、不思議なんだけど、何故被害者の方に視点がいきがちなんだろうか。 問題は加害者にあるのに決まってるのに。やまゆりは本当にそう。被害者に狙われた理由なんかないし、責任なんてあるわけがない。なのに、いつもきまって被害者の方ばかりスポットを当てたがる日本の報道。

 しかし一番問題なのは、ああした事件の加害者たちが「普通と違う特別な人種」と思ってしまうことだ。そうして遠ざけて、罰を受けることだけを望んでしまうと、何の解決にもならない。彼らのようなスイッチを持った人間は他にもいるからだ。そして、それはもしかすると、少し先の自分の姿かもしれないからだ。

 スイッチをコントロールする術を必修として全員が学ぶという方法しか、有効な対策はないのではないかなと、私は思います。

 地味かつ迂遠なやり方だけれども。




 おっと、すみません。脱線しました。

 つまりね、周りで他の誰かが起こすような事件は、自分だって起こす可能性がある、と思っとく方が、間違いがない、ということです。




 あとね、人間の感情の中で、一番コントロール出来ないのが、「嫉妬」の感情だと思う。

 こればっかりは発動してしまうと手に負えない。「理性」のコントロールをやすやすと奪って暴れ出す。

 そんで、「嫉妬」って、他のネガティブな感情も一気に発動させる威力を持っているんですよ。そして主人格をめちゃくちゃ疲弊させる。

 恐ろしい相手なので、この感情のスイッチは、絶対に入れないようにしています。

 このスイッチを入れずにいられると、生きるのが格段に楽。




 そう、ここまでつらつら書いてきたことは、「どうすれば人生が少しでも楽になるか」をひたすら考えて、自分で(こうだろう)と体得してきたものです。

 だから、人それぞれで全然違うと思う。

 だけど、生きるのが楽かしんどいかなんて、考え方ひとつで随分違うじゃないですか。

「へー、こんな考え方もあるのか」程度のご参考になれば幸い。

 

 

 あ、あと少し続きます。

essay.3 自分の価値

 本が好きだったので、国語の教科書と道徳の教科書は、毎年新しいのを読むのが楽しみだった。

 教科書に載っていた話で好きだったものはいくつもある。

 「くじらぐも」、「やまなし」、「スーホの白い馬」、名作が色々ありましたね。

 「スイミー」も好きだったな。



 好きというわけではないんだけど、なんか気になって、いつまでも覚えている話があった。

 道徳の教科書に載っていたんだと思う。

 せつこという子がいて、動作がゆっくりで、勉強もそうできる方じゃなく、クラスでなんとなくバカにされていた。

 でも、美術が好きだったのと、コツコツ地道な作業を重ねるのが苦じゃない気質だった。

 せつこちゃんが作った花びんだったか壺だったか、それが見事な出来で、なんか賞を取りました、みたいな筋だったと思う。

 要は、「とりえがないように見えても、人間、何かひとつはとりえがあるものです」的なストーリーだったと記憶している。



 この話、後々になっても、ふっと頭をよぎることがあった。

(じゃあ、もし美術も得意じゃなかったら?)

と思ったんですよね。

 勉強が出来なくて、運動音痴で、手先も不器用だったら?

 見た目もブサイクで、成績表がオール1だったら?

 おまけに性格もよくなかったら?



 人から褒められるような美点が何ひとつなかったとしたら、その人間の価値はないってこと?

「人間何かひとつはとりえがあるものです」という結論なら、そういうことだよね。




 思春期にさしかかり、自我が芽生えて、未熟な自分と世間との折り合い方が分からず、色々悩み始める時期、最初にぶち当たるのがこれじゃないでしょうか。

「自分の価値ってなに?」

ということだ。

「人間の価値とは何か」

という、根源的な問題でもある。

 だから、たくさんの漫画やアニメや小説や映画が、この問題を取り扱っているわけだ。



 勉強が出来なくて、家庭内ヒエラルキーも下の方で、冴えない毎日を送っていた地味女子が、ある日クラスのモテ男子に見染められるとか。

 あるいは、周りからバカにされていた男子が、スポーツを始めて変わっていき、仲間・友情・努力の大切さを知る、とか。

「どんな人でも誰かの大切な人だよ」だったり、「誰でも努力次第でこんなにステキになれるよ」だったり、そういうメッセージを発しているものが多いですよね。

 そこに疑問を持つわけじゃないんだ。そういう作品は素直に感動出来る。




 ただ、

(じゃあ誰からもモテなかったとしたら)(そもそもスポーツを始めることなく、怠惰なままだったら)(友達が1人もいなかったら)(努力が嫌いな人間だったら)

 じゃあその人には価値がないのか?という疑問を解消することは出来ない。



「それでも、立派に独り立ちして、誰にも迷惑をかけずに生きているならエライ。大したもんだ」

という言説もあるだろう。

 では、事故か病気で身体に障害を負ってしまい、他人の手を借りなければ生きていけなくなったとしたら?

 生命維持に高額の医療費がかかってしまい、一時も目を離せないような状況になったら、どうなるんだ?

 もし自分がそうなったら、(生きていても仕方ない)と思ってしまうかもしれない。そのとき、自分の生を肯定するには、どこに価値を見出せばいいんだろうか。



 この問題、私はずーっと考えていた。

 生きていたら、辛いことなんてたくさんある。(あーもう死んじゃった方がましかも)と思うことだってあるだろう。

「自分を大事にしろ」

と大人は言うけど、自分を大事に思うって、どういうことだろう。元気なときはいいけど、落ち込んでボロボロになったときにも自暴自棄にならずにいられるには、どう考えればいいんだろう。

 難しい問題だった。回答が見つかるまで、随分かかりました。




 私が得た答え、既に何度かこのブログで書いている。昆虫の回ね。

「この世に生を受けたなら、それだけで奇跡だ。自分の価値だなんだとぐだぐだ悩まず、精一杯生をまっとうすべし」

というものだ。

 そんなこと悩むの、間違いなく人間だけなんですよね。悩むだけ贅沢だ。

 これに一番近いのは、さんまさんの「生きてるだけで丸儲け」ですね。別にファンではないんだけど、その一点だけは共感する。

 まあでもホントさ、この世に生まれてくるだけで奇跡ですよ。母を見ていて、(私はこの人の細胞の一個だったんだなあ…)と、不思議な気持ちになることがある。

 大病もせず、たいした事故にも遭わず、お陰様で無事生きとります。




 で、これは、私が得た、私の答えだ。

 これが正しいと言ってるのではない。ただ、自分の価値について、とことんまで考えてみて、自分なりの答えを見つけることが大事なんじゃないかと思う。

 

 

 例えば、美人でスタイルがよくて、人から褒められて、自分の価値はそこにあると思って生きてきた人は、加齢や事故や病気で美しさを失ったとき、生きる価値も見失ってしまうことになる。

 お金を持っていて友人も多い自分が好きな人は、仕事に失敗して借金を抱え、友人に去られたら、どん底に落ち込んでしまうだろう。

 上昇気流に乗ったまま行ければいいけど、うまくいかないことは往々にしてある。

 そういう人生の危機にあたって、自分の本当の価値について信念を持っていると、それが自分を守ってくれる。

 



 今まで、罵倒されたり、人格否定としか取れない言葉で責められたり、色々あったけど、その人たちの言葉を真に受けて傷ついたことは、あんまりない。

 もちろん不快だし、ショックだし、嫌な経験ではあるけれど、(自分に価値がないのではないか)と思ったことは、多分ない。

 人を罵倒したり、人格否定してくる人って、大概その人自身が心に問題を抱えているか、人格が弱いことが多い。「弱い犬ほどよく吠える」というやつです。

 きゃんきゃんうるさくて閉口するけどね。




 このブログにたまーに登場する、前の職場のクソ上司、ホント合わなかったし、人の上に立てる人じゃないと思うし、さんざん汚い言葉で罵られたから、そのことに対しては(バーカバーカ)と思うけど、だからと言って、その人に価値がないとは思わない。

 私と生きるフィールドが違って、相性が合わなかっただけで、彼には十分長所があり、立派で尊敬できる面もあった。

 まあでも、人の価値について思いわずらうのは、自分のだけにしとくのがいいと思う。

 他人様の価値についてどうこう言うのは僭越な行為ですわ。精神的に大人な人は普通にしないと思いますけどね。

 他人に向かって「生きてる価値がない」なんて断言できる人は、病気だと思います。

 リアルでそんな人がいたら絶対に関わらないし、SNSで見かけたらブロック一択だ。



 例の事件について、「だから~すればよかったのに」という話ではありません、念のため。

 あくまで、私が考えてきたことと、今気をつけていること、というだけです。

 不毛なたられば話はしない。




 もうちょっと続きます。

essay.2 一人でいる練習

 私が小学生のときも、いじめの問題はあった。マンションの高層階から子供が飛び降りたりしていた。ただ、全国区のニュースで耳にする程度で、実際の身の回りには、子供同士のいじめで深刻なのはなかったと思う。

 あと、田舎の小学校だったんだけど、先生方には本当に恵まれていた。暴力教師…というか、まあ体育会系の勘違い教師が一人だけいたけど、その他は、教育に熱心で、悪いことは悪いと、きっちり子供に示してくれる先生たちばかりだったと思う。

 悪ガキもいたけど、身障者を揶揄するような身振りで囃し立てたことがあって、当時先生がカンカンに怒り、叱り飛ばしただけでなく、1時間そのことに対する授業を設けて、なぜそれがいけないのか、クラス全員で考えたりした。 

 小学校のとき、周りにちゃんとした大人がいてくれて、善悪をきっちり教えてくれたのは大きかったな。

 



 で、中学校だ。

 私は割と社交的な方で、成績も悪くなかったから、中1のときは友達も多く、楽しく過ごしたと思う。

 クラスに一人、ものごっつい変わった子がいた。髪の毛を自分で抜いて、机の中に溜め込んでいた。休憩時間、ぶつぶつ独り言を言ったりしていた。浮いてはいたし、「あの子本当に変わってるよね」と話したりはしていたけど、特にいじめの対象とかにはなってなかったと思う。

 なんでそんなことしてるんだろう?と思って、席が近くなったときに話しかけたりして、まあ会話を交わすようになったんですね。

 多分、その子にとって、クラスで一番話をするのが私だったと思う。

 私は昔から、この手の人に妙になつかれる癖があって、それは大学時代まで続くんだけど、それはまあ置いといて。

 でですね、中2のクラス替えのとき、その子と誰を一緒にするかという相手に、私が選ばれたんですね。

 新しいクラスは、部活の仲良しで既にグループがばちっと決まっていて、新参者が一人入っていける雰囲気ではなかった。

 その超変わった子と、話したのかなあ。覚えてないけど、私にとっては別に仲の良い友達というわけではなかったから、心を開いて話すことはなかったと思う。

 なので、休み時間は、ぽつんと自分の机で本を読んでいる羽目になったわけだ。




 本は好きだったけど、さすがにそんな状況で落ち着いてストーリーを追えるほど老成しているはずもなく。

 これが、他の子もばらばらで、一から友達を作るとかだったら、なんてことはなかったと思う。でも、バレー部はバレー部、バスケ部はバスケ部で、元々仲良かった同士が奇跡的に同じクラスになれて、大喜びしているような状況だったので、なかなかそこに、「入れて」とは言いにくい。自分もバレーなりバスケなりが好きならともかく、超インドア派だし。子供は子供なりにプライドもあるしね。

 周りの女子がきゃいきゃい話している中、私だけが自分の机から動かないまま、ぽつねんとしている状況。(あの人、友達いないんだよ…)(仲のいい人と同じクラスになれなかったんじゃない?可哀そうに)とか言われているような気がする。強烈な居心地の悪さ。

 出来ることと言えば、せいぜい、こんな状況屁でもないです、と平気な顔をしていることくらい。

 でも当然だけど、全然平気じゃなかった。




 今だったら、その仲良しグループの子だって四六時中くっついてるわけじゃないんだから、教室移動のときにちょっと話しかけてみるとか、色々と手は思いつくんだけど、そのときはそういう駆け引きは考えられなかった。

 ぼっち期間が長くなってくると、自分から話しかけると(グループに入れて欲しくてすり寄ってる)と思われるんじゃないかな、と、つい先読みしてしまって、動けなくなる。

 辛かったし、1日がめちゃくちゃ長かった。

 家に帰ってきて、もうなんか色々こみあげてきて、わぁっと声を出して泣いてしまったこともある。




 さあ、どうする、と思ったわけだ。

 この辛い状況を打開するには、何か手を打たねばならぬ。しかし、もう既に固まりつつあった人間関係を、自分一人の力でどうにかするには、ハードルが高い。

 と、そこで、(待てよ)と考えた。

 この「ぼっち」で辛いという状況、この先もあるかもしれない。これまでは幸い、いじめられずに済んできたけど、高校や大学、社会に出てからだって、周囲から孤立して辛い、という立場に置かれることはあり得る。

 だったら、慣れておいた方がいいかもしれない、と思ったんですね。

 いじめでよくある「無視」も、自分の存在を認めて欲しいのに、相手してもらえないから辛いのであって、「人は人。自分は自分」を貫けば、その攻撃力も無効になるのではないか?

 私はいじめに遭っているわけではなかったけど、教室に行っても、挨拶したり軽口を叩いたりする相手がいなかったから、無視されているも同然だった。

(一人でいる練習をしよう)

と思った。

 身近にはいじめはなかったけど、荒れている中学校もあったし、いじめが苛烈化し、深刻になってきている時代でもあった。

(今のうち、心を強くしておくことは、多分必要なことだ)

と、それが中2の私の判断だった。




 そうすると、次の日から、一人でいる時間は「修行」になるわけですね。

 居心地の悪さは変わらないけど、目的が出来ると、「一人でいる」ことに意味が出てくる。

 そこからは落ち着きを取り戻したと思うんだけど、あまり覚えていない。

 人の脳は辛い記憶は封じるように出来ている。辛いことは思い出したくないもんね。




 でもこの時期、私は本をたくさん読んだ。「たくさん」じゃ足りんな。しこたま読んだ、と言った方がいいかもしれない。

 図書館で司書さんと仲良くなって、持ち出し禁止の本をこっそり貸してもらえたりした。

 勉強ももりもりしましたね。人生で一番賢かった時代かもしれない。暗記して、テストでいい点取るのが楽しかった。




 あと、「唯々諾々」「付和雷同」が死ぬほど嫌いなのは変わりなかった。

 何かあったときは、人の意見に流されないように気をつけた。一人だけ違う意見でも、平気…ではなかったけど、頑張って言うようにしていたと思う。

 周りのクラスメイトからしたら、なんか変なやつだな…という印象だったんじゃないでしょうか。女子の割に皆で固まってきゃっきゃすることもないし、いつも一人でいて平気な顔してるし、なんかこう、どう扱っていいのか分からない相手だったのかもしれない。

 やらしい話、成績はよかったので、なんとなく一目置かれている感もあった。

 でもこの感じで修学旅行を迎えたので、私にとってはあまり楽しくないイベントだった。

 部屋割りとかね、周りはみんな楽しそうなのに、私は「はみ出した奴が入れてもらってスミマセン」と、いたたまれない気持ちでいたような気がする。




 しかし、学年の終わりごろ、私に話しかけてくる人が増えたんですよね。

「話してみると面白い!」

てなって、周りに自然と人が集まってくる感があった。

 そのころになると、元あったグループもくっついたり離れたりで解体されていて、改めて人間関係が構築されつつあったんですね。

 結局、私を中心に…ということではないんだけど、めちゃくちゃ仲良くなった子たちで5~6人のグループになった。

 だから中3ではよく遊びましたね。




 私の中では、「一人になりたくないから」という理由で変節せずとも、自分のままでいることで、そこを認めて寄ってきてくれる友達が出来たことは、すごく大きな自信に繋がった。

 あと、多分このとき根性はめっちゃついた。



 一人でいたくないという理由で、大して好きでもない相手と見せかけだけの友達ごっこしたりする人たちがいる。一人が寂しいというだけでなく、多分「一人ぼっちで誰からも構ってもらえない奴認定されたくない」というのもあるんじゃないかと思う。

 その理由で、中には結婚までしちゃう人もいるじゃないですか。

 その人にとって、「一人じゃない」ことが他の何よりも大切なことなら、その選択でいいんだろうけど、そのことのために自分の本心を偽ったり、友達と思っていた相手から裏切られたりとか、そういう弊害もあるんじゃないかと思います。




 あ、これはあくまで、「いざというとき一人になっても大丈夫」という耐性の話であって、例えばいじめで無視されている人がメンタルの強さを持っておくべき、とかそういう話では全然ありませんので、悪しからず。

 いじめの無視は単なる暴力だ。そんなものは我慢する必要はない。もし状況が許すなら、そんな場所、さっさと逃げればいいと思う。




 今思い返しても、私が中学生だったとき、クラスメイトたちは割と大人だったな、と思う。

 私も、キャラ的にはいじめられてもおかしくなかったのかもしれないけど、「輪に入れてもらえない」(それも故意ではない)だけで、意地悪されたり揶揄われたりとかはなかった。

 仲良くなった後は、例のめちゃくちゃ変わった変人子も時々一緒になって、みんなでその子をいじったりしていた。その子の変人っぷりは相変わらずだったけど、誰もいじめようなんて考え、頭になかったな。




 元々一人っ子で、一人で過ごすことには慣れていたけど、この経験をして、「周囲から一人だと思われても全然へっちゃら」というマインドを手に入れた。

 映画は一人で観に行くと決めているし、一人で飲みに行くのも平気だ。

 要は、自分の行動が自由になるんですよね。選択肢が増えるというか。

「おひとりさま」という言葉がブームになったころには、当たり前すぎて、何を言っているのか分からなかった。




 ああ、だから、「一人でいる練習」とはつまり、「不特定多数の他者から見られる練習」でもあったわけだな。

 行動の制限て、大抵(周りから何て思われるか…)というところじゃないですか。

 でも自分で思うほど、周りは自分を見ていない。要は、制限してるのは自分自身なわけです。

 そこを気にしないでいられると、強いですよ。




 まだ続きます。