おっさんずラブが好き!

ドラマ「おっさんずラブ」の細かすぎるレビューブログ。OLの深い沼にハマって当分正気に戻れません。ほぼおっさんずラブの話題しかないかもしれない。ネタはバレまくりなのでご注意を。

essay.5 汝自身を知れ

 ソクラテスの言葉と思っていたけど、違うんですってね。デルフォイの神殿の入り口に書かれている言葉だそうな。

 私の座右の銘はこれです。

 今のところ、変更する予定はない。



 一人の人間が知ることの出来る量って限りがあって、知ることが大好きな私にとっても、周り中知らないことだらけだけど、でもやっぱり「分かってないことNo.1」と言ったらもう「自分自身」これですよ。

 前章で、感情のコントロールが重要、という内容を書いたけれども、つまりは自分がどの感情の部屋のスイッチが入りやすいのか、自分で把握しておく必要がある。

 でもこれがね、分かってないんだな。意外と。自分で思っている以上に。



 他人のことはよく分かるじゃないですか?

(あ、あの人、自分のことを頼りがいのある男と思っているし、周りからもそう思われてると思い込んでるな)

とか。

 しかし実態は自分を大きく見せるのが好きな小心者で、他人へのダメだしはドヤ顔でするけれど、正論で反論されると途端にビビり、逆ギレする……とかね。

 同じように、自分に対しても、俯瞰で見て、公平で辛辣に見ることが出来ればいいけれども、それが出来ている人は少ない。

 やっぱり、「こう見られたい自分」を見てしまうんですよね。

 人間の脳は、自分に都合のよいものだけを見ようとすることにかけては天才的なのです。自分ちで鏡で見た自分の姿は、だいぶ補正しちゃってるからね。真実を見たければ、写メ撮って見るのが一番だ。



 まあでも今はそこじゃない。この文章を書く目的は、他人から見られる自分と、自分の理想像を一致させよう!ということではない。

 脳は割と騙しや引っ掛けに弱いから、自分で思い込んでいる「自分」像は、真実とは違うものであるという事実をまず、前提として覚えておく必要がある、ということで。




 人生を楽に生きるためには、「怒り」「悲しみ」といったネガティブな感情から呼び起こされるストレスは、出来るだけ軽減したい。

 そのためには、自分が何に対して怒るのか、何を悲しいと思うのか、それを把握しておいた方がいい。

 例えば私は、「ブス」と言われてもそれほど怒りは感じないんですね。人から容姿をどう見られたいというこだわりがあんまりないし、まあ正直美人ではないので、(あーまあひとつのご意見ですね)と思う。で、そんなことを他人に向かって言えるような品性の持ち主は、別に友達になりたくもないから、(そんな奴にどう思われようとどうでもいいわ)とさっさと「処理済」の箱に移すことが出来る。

 どうせなら、「言われる」→激おこ→落ち込む→ストレスを癒すのに必死になる→なんとか平静を取り戻す→「処理済」箱行き となるよりかは、「言われる」→「処理済」箱行きと、さくっと済ませた方がエコじゃないですか。そんなくだらないことのために使う私の有限のエネルギーが勿体ない。

 ところがこれが「バカ」だと話が違う。まず、むっとする。(この私にバカって言えるってことはそちらさまは大層頭がおよろしいんでしょうね)と、一瞬でこのくらいの温度にぐぐっと上がる。

 ということは、私にとっては、「バカ」と思われるのが屈辱、ということだ。

 つまり、私は自分で自分のことを「バカ」と思っていないし、なんなら「ちょっと利口」くらいに思っている、ということだ。



 で、大事なのはここから。

「バカ」と言われてかなり頭に来る私、自分でどうやら「利口」と思い込んでいる、と気がついた。

 さあ、そこであの技ですよ。(本当にそうか?)と自分に問い直してみる。

 書いてて笑えてくるけど、まあそんなことはないよね!笑 「バカ」にも色々種類があるけど、私なんて本当に偏った人間だし、「バカ」と言われても仕方のない愚かさは十分持ち合わせがある。

 すごく気を許した友達に「朔ちゃんてバカじゃん?」て悪気が120%なく言われたこともある。あ、これはこの友達が正しかったんですよ。私はバカだから後から意味が分かったけど。

 で、こう自分を捉え直すと、「バカ」と言われて一瞬で沸騰するような事態は、再発を防ぐことが出来るわけです。

 相手がどういう意味で言ったのか、その場の流れとか文脈とかあるからね。悪意で私を貶めたいと思って言った言葉なら、そこで改めて対処すればいい。




 誰かに対して、(なんか不愉快だな…)とか、(理由はよく分からないけど嫌いだ)と感じることもありますよね。

 ただ単に相性が悪いということもあるけど、私はそういうときも、(なぜこの相手を不快と感じるのか)と、自分の中を掘ってみることにしている。

 ちょっとイヤくらいなら無視すればいいし、関心を持たなければいい。でも、その相手に注意が向かってしまい、結果不快だと感じるのなら、相手の何かに反応するものが自分の中にあるということだからだ。

 で、意外とあるのが(自分に似ている)ということなんですよね。同族嫌悪というやつです。

 まあ、自分にトラウマを与えた人間に似ているとか、そういうケースもあるけども。

 タレントの誰かの悪口とか、めちゃくちゃ言ってる人がいるけど、それするくらいだったら、その人を嫌う自分を分析してみる方が有意義なんじゃないかな…と思う。

 あと、傍で聞いている私は(ふむふむ、きっとこの人のコンプレックスがこういうところにあるんだな)と、悪口を声高に言い立てる人自身を分析しながら聞いてます。



 悪口を言うのがよくない、と言ってるのではないので、誤解なきよう。

 あくまで、「自分の中のネガティブな感情をうまく処理してストレスを減らす」にはどうしたら有効か、という話です。

 午後のお茶のお茶うけ的に旦那さんの悪口大会で盛り上がってスッキリ!みたいなのはストレス発散に全然いいし、前述のタレントさんの悪口だって、別に本人に聞こえないところで言う分には大した罪はないと思う。

 誰かを口を極めて罵るのって、面白いですよ。私は的確でキレのある皮肉を効果的に使える人が大好きだ。

 あ、そんで、いちいち断るまでもありませんが、もちろんあくまで「悪口」であって、「誹謗中傷」とはまったく違うものなので、そこんとこよろしく。




 あと「怒り」に関しては、義憤というものもありますからね。不正なこと、酷いことに対して怒ってしまうのは、正しい怒りだ。そして、その状況を打破するためには必要なエネルギーだ。「悲しみ」もそうですよね。

 退けてはいけないストレスもある。





 自分に関して、「自分の本心を知っている」人が、案外少ないという実感がある。

 私は、人生の岐路に立ったと感じたとき、割とフィーリングで決めるんですよね。あんまり計算とか出来ないんだ、そういうとき。

(どうする? どっちに行きたい?)と自分に聞く。自分にというか、深い部分の自分の「核」と言うか。

 楽しそう、面白そう、わくわくする、やってみたい、そういう高揚というか、ときめきを感じたら、そっちへGOだ。

 あのー、アレです。地下水の水脈を探すときのダウジング。ああいうイメージ。



 そういう本心て、抑圧してしまうのはよくないと思うんですよ。押しつぶすと、腐る。嫌な臭いを発する、真っ黒な何かになる。その人の明るい部分を曇らせ、口からネガティブな言葉があふれるようになる。で、ついには自分自身の心が分からなくなってしまう。

 ブラックな職場で働いている人、義実家との軋轢で心をすり減らしている人、結婚前と様子が変わってしまった配偶者と愛のない生活を続けている人、自分の本心を封じて生きている人は多いな……と感じる。

 



 自分の本質を知り、抑圧することなく、のびのびと生きることは、「幸せ」の絶対条件だと思うです。

 そういう意味では、「自分自身を知る」ことが、つまりは「自分を大事にする」ことに繋がると思うです。

 ハイ。




 次、ラスト。「自己肯定力」について。