おっさんずラブが好き!

ドラマ「おっさんずラブ」の細かすぎるレビューブログ。OLの深い沼にハマって当分正気に戻れません。ほぼおっさんずラブの話題しかないかもしれない。ネタはバレまくりなのでご注意を。

揺らすまじ。

 こんばんは。今宵も閲覧いただきありがとうございます。

 お陰様で、怪我の具合は日一日とよくなっております。

 最初の病院で、固定バンドを貰って、付け方も教えてもらったんだけど、それ付けてても歩くと激痛だった。

 その病院はちょっと通うのが難しい場所なので、職場近くの別の病院に転院したんだけども、そこで

「あ、それ付け方違ってるよ」

と言われた。

 痛む部位がアバラなので、胸をこう、ぎゅっと押しつぶすように装着しないと意味がなかった。

 新しく教わった通りに付けたら、痛みが半減しました。



 ともかく、胸を揺らさないよう、揺らさないよう、そーっと動かないといけない。

 やってみて初めて分かったんだけど、今まで揺れながら生きてたんだな……と思った。

 だって、考えてみれば、上半身の半分より上にあって、しかも二つもさ。脂肪の塊だから柔らかいわけじゃないですか。大きさは個人差があるけど、片乳で大体500g~2kgくらいですかね。固さも、年齢だったり鍛え方だったりで色々だろうけど、まあでも実態は脂肪ですから。スライムに例えておけばほぼ間違いはなかろうかと。

 そんな、丸いスライムのカタマリがぶら下がってるんだから、そりゃ揺れるよね。

 それを、

「いかにして揺らさずに動くか」

というミッションに日々取り組んでおるわけです。



 スポーツブラして、さらに固定バンドで締めつけていても揺れる。だから歩くときには手でぎゅーっと押さえつけている。手の平の部分で胸んとこを押さえていると妙なので、左肩から提げたカバンの紐を掴んでいる体で、前腕部を使って押さえている感じですかね。

 それで、歩行時の痛みはかなり解消した。

 身体を動かす仕事なんだけど、固定バンドをきつめに装着していれば、なんとかなっている。

 いっそ「うる星やつら」の龍之介みたいにサラシ巻いてりゃいいのかもしれないけど、それはそれで「締めすぎで苦しい」のと「蒸れる」問題が発生するし。

 なかなか困難なミッションです。




 事故直後は痛みも強かったし、身体に受けた衝撃がどこに出るか分からなかったので、ひたすらじーっとしていた。

 でも早く治りたかったので、不自由ながら時間をかけて料理をし、野菜とタンパク質と糖質をせっせと摂った。

 どうなるかと言うと、まあ、太りますわね。あと正直、他にすることがないから、ついついおやつも食べちゃってたしさ……

 しかし、今は前やっていたようなトレーニングをせっせとやるわけにはいかない。

 けど筋肉も落としたくないし、カロリー消費を増やさねばならぬ。




 転院先のドクターにも、

「足が無事でよかった」

と言われたんだけど、今回は本当にそう。不幸中の幸いだった。

 足はもう、どこも何ともなってない。打撲の痕は、変色しているだけで、腫れも痛みもほぼない。

 なので、昨日あたりから無闇に階段の昇り降りを始めた。

 エスカレーターもエレベーターも封印。ともかく階段を上る。上まで行って降りてまた下から上る。時間の余裕にもよるけど、3往復くらいすると息が切れてくる。息が切れるまでやる。

 平地の歩行よりも、階段をゆっくり昇り降りする方が、胸も揺れないし、動作の負荷は大きい。

 上半身に怪我してるときのトレーニングとしては絶対階段!ですね。



 スクワットも出来る。HIITみたいな速度では出来ないけど、上体をまっすぐにしてゆっくり沈んでゆっくり上がる、これだけでも1分もやると汗が出てくる。

 さらに、椅子を使って片足のブルガリアンスクワットにすると、身体への振動なく、運動の強度を上げることが出来る。




 上半身も、肩甲骨周りが固まるのがイヤだったので、そろそろと動かすことを始めている。

 二の腕のトレーニングは、両腕一度にやるとアレだけど、片方ずつならなんとかいけることを発見。私が痛めているのは右の肋骨付近なんだけど、右腕を横に垂直に伸ばして回すという動きをやると、どうしても胸が揺れるので、その時だけ左手で右乳を押さえてやるわけだ。ハタから見ている人がいればおかしな仕草だろうが、1人だから構わない。

 肩と二の腕トレーニングは、身体がポカポカして、スッキリするので、どんな人にもおススメです。




 上体を「捻る」という動作が出来ないので、どういうアプローチでも、腹筋を直接鍛えるトレーニングが出来ない。仰向けに寝た状態で足パカを試してみたけど、これも無理だった。体幹を鍛えることが出来るようになるのはもうちょい先になりそうだ。

「ドローイン」という呼吸を使った腹筋トレーニングもあるんだけど、アバラが痛いと、これも出来ないんだ。深呼吸がそもそも痛いし。

 これはもうしゃーないっすね。諦めも肝心。




 他に何とか、怪我の治りを早くする方法はないか……とない知恵を絞って考えた。

(あ……湯治)

と思いつきました。そう、昔の人は、痛いところがあると温泉につかって治していた。

 なぜ温泉につかると病気や痛みが治るのか? お湯に含まれるミネラル分とか、薬効成分がもちろん効果があるんだろうけど、単純に

「お湯にゆっくりつかる」

のは身体の回復を助けるんじゃないかなあと。お風呂に入ると睡眠の質も上がるし。

 私、実はあんまり長風呂が得意じゃないんですが、今はそういうわけで、極力お湯につかるようにしております。

 でね、痛みもないし、この打撲の変色部分は、あっためてマッサージしたら早く治るんじゃないかな?と考えて、軽く揉んだりしてるんですが、もうかなり普通の肌色に戻ってきた気がしますね。効いてるかどうかは分からんけど。




 しかし人間の女性ってなんでこんなフォルムなんですかね。第二次性徴後の女性にとって「胸」って色んな意味で厄介で、私も昔から

(あーもう邪魔!)

とか

(要るときだけ着脱出来たらどんなにいいだろう)

とか、何度も考えた。

 でも、今ほど「揺らさない」ことに真剣に取り組んだことはなかったですね。笑




 身体の一部に痛い部位が出来ると、それだけで普段とまったく違う景色が見える。

 人間、出来れば痛くない方がいいので、(いかにして痛みをなくすか)ということを全力で考える。

「七転び八起き」と言いますが、転んだのはもうしょうがないとして、せっかくなんでこの経験から出来るだけ多くの学びを得たいですよね。

 あともうしばらくは痛みと付き合わないといけないみたいなんで、精進しようと思います。

近況報告。

 さて、実はですね、今身体を負傷しております。

 事故に遭いました。

 人身事故でして、今現在進行形なので詳らかには出来ませんが、これにつきましてもまたいずれ書けたら書きたいなと思っております。




 だからして、安静が必要な状況でして、ホント言うと

「ブログ書いてる場合なん?」

というところなんですが、こうやってPCで文章打つくらいしか、今自由に出来ることがないんですよ。

 ちゅーわけで、その辺の報告をば。



 あ、でも、怪我と言っても外傷はありません。単なる打ち身です。

 あの感じで打ち身だけで済むって、マジで奇跡だわ……と、今思い出してもぞっとします。



 最初、一番酷いと思われたのが、右足の打撲でした。

 家に帰ってすぐ、(応急処置や。RICEや!!)てなって、厚手のタイツを履いた上からぐるぐるガムテで巻いて圧迫。その上から保冷剤を巻きつけて、布団を積んだ上に足を乗っけて挙上。そのまま2時間じっとしてたかな。

 溶けた保冷剤を取り換えて、そのまま寝たんだけど、その打撲はその措置で大体OKでした。

 二日目、三日目と青黒く変色はしたけど、腫れることはなく、痛みも大したことなかった。

 RICEマジですげー。



 後から痛み出したのがアバラで、これは徐々に痛みがどんどん増してきた。

 変色してないから、打ってはないんだと思うんですよね。ただ、衝撃が凄かったので、色んな力がアバラにかかっちゃったんじゃないかと。素人考えですが。

 いやー、アバラって急所ですよね。これが痛いんだ。

 歩くと痛い。歩行すると、どうしても胸が揺れる。その振動が堪える。

 最初、大したことないと思って、二日目に出勤しようとしたんですけど、仕事鞄持って道路を歩き出して5分後にはもう

「イテテテ!!」

てなって、無理やった。

 ド根性で行こうとして、状況を報告したら、上司のG子さんに

「帰りなさい」

と止められた。




 今は月初の繁忙期。本来休んでなぞいられない。

 昨日も、午前中はお休みをもらって安静にしていて、午後はどうしても人がいないと回らないので出勤したんだけど、仕事中はまだいい。その後、駅からバス停、バス停から我が家までの歩行がマジで地獄。

 揺れると痛いので、なんとか苦痛なく歩けないか考えた挙句、「必殺☆しゃなりしゃなり歩き」を発見。

 平安貴族のお姫様のごとく、すり足でしゃなりしゃなり歩くと痛くないことが分かったんだけど、

「しゃなりしゃなり歩くごくフツーの47歳のオバサン」

である自分を想像したら

「ブフッ!!」

吹き出しちゃって、笑うとアバラに堪えるし、挙動不審だし、でなんかもう大変でした。



 しゃなりしゃなり歩きでも、10分もするともう痛い。

 狭心症か何か、心臓の持病がある人みたいに右胸を押さえ、痛いもんだから顔は般若の形相で、

「イテ、イテテテ…」

と呻きながら歩くしかない。

 すれ違った人たちは怖かっただろうなーと思う。

 誠に申し訳ありませんでした。



 

 打撲なのでもう日にち薬しかないわけだ。

 で、前の記事にも書いたと思うけど、私は怪我したとなると

(食事で治そう!!)

と何故か張り切るタイプだ。

 今回も買い込みましたがな。

 鶏胸肉、レバー、蛸、アサリ、チンゲン菜、春菊、白菜、その他諸々。

 重たい荷物が持てないのでアレなんだけど、今こそネットスーパーかな、と検討中。

 今日はお昼にタコと枝豆のトマトスパゲティ食べました。

 美味かった。




  いやー、まさか自分が事故の被害者になるとはね。

 いやでもこれって大体みんなそうで、「まさか」って思ってますもんね。被害者になった人も被災者になった人も。

 人生ホント何があるか分からんです。

 皆さんも気をつけて生きてください。

 気をつけてても起こるときは起こるんですけどね。




 ところで、2021年は水瓶座がめちゃくちゃ運気がいいとかって動画がYouTubeにたくさん落ちてるんですが、どうなんですかね。

 ていうか多分水瓶座の人って世界全体で数えきれないほどいると思うんですけど、その人たちが一斉に幸運に恵まれるんですかね?

 もしそうなら私も水瓶座の端くれとして是非あやかりたいものだけど、今のところそんな気配は微塵もない。

 身近な人が奇禍に見舞われたと思ったら次は自分だった。あのぶつかり方で打ち身で済んだのはラッキーだったけどさ。

 どうせなら宝くじで100万当たるとか、それくらいのラッキーに見舞われてみたいもんですよ、ホンマ。(7億とか当たると人生変わりそうなんでイヤ)

不完全な私たち。

 言葉というものは難しい。

 思いを伝えるためにあるはずだけど、真意が思うように伝わらないということがしばしば起きる。

 ラインやメールでメッセージを書くとき、

「分かりました」

 だけで用は足りるんだけど、それだけだと素っ気ないかな? 愛想ないと思われるかな? 不本意だけど受けました感が出ちゃうかな?と色々考えて、

「連絡ありがとうございます。了解です」

と、言葉数を増やしてみたりすることはしょっちゅうある。

 不思議なもので、言葉数を増やしただけで、割とオブラート感が出るんですよね。



 その一方で、思いがけずその人の本質が出たりすることもある。

 気遣いの言葉に対してスルーしてしまう。それはとりもなおさず、相手の気配りに気づかない鈍感さを露呈してしまうことになる。

 受けた方は、(ハイハイ、了解~)くらいに思っていても、送った方は(既読ついてるのに無視された)と感じてしまうこともある。

 既読スルーが悪と言っているのではなくて、そこにその人の性格というか、普段の行いが出てしまうこともあるよね、という話。



 他人の行いだとよく分かる。

 一番分かりやすいのがヤフーの記事につくコメント欄だ。あれ、面白いですよね。「私の知人も……」と自分語りが始まる人がまあ多いこと。

 その人にとっては、それが真実だということは分かる。分かるがしかし、当該の芸能人はあなたの知人ではないし、勝手に同類に分類してバコバコに叩くのはどうなん、という話で。

 でも多分、人間て、どんな人の話も自分の暮らす半径1メートル以内の生活圏に引き寄せて考えるんでしょうね。



 ところが、同じことを自分がやっていることにはなかなか気づかない。

 前の記事で書いた、他の人に対してマウントを取る行為ね。あれ、自分自身がやっていることに気づいたの、本当につい最近でした。

 そう思ってこのブログの記事を読み返すと、まあ初期の文章なんか恥ずかしいものですよ。ドヤ感満載で。

 他の人のブログに入れる感想コメントも、面白かった!と一言書けばいいものを、わざわざ自分が知っている知識を披歴したりして、それを自慢だと気づいてないんだからタチが悪かった。

 人間の承認欲求とはかくも業深きものであるよ。




 まあでも、みんなそうだと思うんです。

「完全な人間はいない」とよく言うけど、本当にそう。

 私たちは皆それぞれ、愚かで、近視的で、うっかり言葉のチョイスを間違えて他人を傷つけたり不快にさせたりしがちな、「普通の人」なんだと思う。

 少なくとも私自身に関しては、自信を持って「そうだ」と言える。




 でね、私がこの駄文ブログをなぜやっているかと言うと、まあ理由を挙げれば色々とあるんですけれども、

「私の言葉が『ちょうどいい』人たちがいるかもしれない」

というのもひとつですね。

 時々、分析的な、論文みたいな記事を書いて載せるじゃないですか? あんなん、本気でその道を研究したことがある人からすればぺらっぺらのうっすーい知識でしかないことは百も承知なんですよ。じゃあ文章力が凄いのかと言えば、それもまあ、大したことはない。

 ただ、じゃあその道の本職の研究者が書いた論文を読みたい人がどれだけいるかと言えば、それも分かんないじゃないですか。

「ド素人でちょっと文章書くのが得意なBL好きがちょこちょこっと書いた浅い考察記事」

の需要って、ニッチだけど絶対あると思う。

 ていうか、それが私だ。

 得られるものが少ない代わり、読むのに肩も凝らないじゃないですか? ささーっと読めて、明日には読んだことを忘れてるくらいな文章も、あっていいと思うし。

 だから私は、自分が書いた記事を読み返すの好きだし、他の文章が達者なブロガーさんの記事を読むのも好き。本職の文筆家の文章と同じように好きかも。

 で、同じように思ってくださる方がたくさんここを読んでくれるようになって、今に至ります。




 多くの人が集まるからには、やはり、ある程度の軋轢というか、何かしらは生じると私は思っていて、ブログをやっている人の多くがまずつきあたるのが、実は「コメント」問題なんですよね。

 こないだの記事で、マナー云々に言及しましたが、でもね、これも正解ってないと思うんです。

 世界中のどんな場所からもアクセス出来るのがネットのよさ。

 その分、「これが守るべきマナー」というのも、実はないのだと思う。

 ここに来てくれる皆さんが、節度を持って、マナーを守ろうとしてくださっているのは、私としても承知しております。

 ただ、場を乱すまいとする余り、何か言うのを我慢したりとか、それがストレスになったりとか、というのも、違うんじゃないかな、と思ったわけです。




 私が挙げた記事に長文のコメントがつき、意見の応酬になり、それが自由闊達な議論になったりする空気が好きでした。

 それはすごくありがたいと思っているのです。本当に。

 ただ、何か「ん?」と思うことがあったときに、「私はこう感じた」と表明するのも、アリなんじゃないかと。




 この内容も、前回に引き続き、書くかどうしようか迷いました。

(でもまあ、ブログに何を書くべきかなんて制限もないわけだし)

と思うに至りまして、一気にばーっと書いております。

 こう、何をどう思って書いているか、とか言及したブログを私はあまり見ないのですが、人がやってなかったって、まあいいじゃん、と。

 ネットは自由だ。



 ということで、不完全極まりない上にド変態である管理人が営む駄文ブログにおつきあいいただいている皆さま、いつも本当にありがとうございます。

 これまで通り、自由にコメントをいただけたら嬉しいです。

 管理人と読者との間に上下関係などありませんので、「いやそれ違うんちゃう?」と思われれば、ご指摘いただければと思います。

 ただ、先に書いた通り、マナー違反と当方で判断した場合は承認しないことをご承知いただきたいと思います。

 上下関係はありませんが信頼関係は必要だと思っておりますので。

 書き手と読者との間の信頼関係についても、書こうと思っているネタがあるので、それについてはまた次回。

 

 あ、そうだ、いただいたコメントにお返事を書かないこともあります。今更ですがそこもご承知いただければ。

 なんでかと言うと、単純に見過ごしていて気づくのが遅れるとかもあるんですけど、放置しているのは大体

「返事に困った」

からですね。

 うーむ、そう来たかー、私はそれについては何ともコメントしようがない……てなったとき、面白い返しを思いついたら書くんですけど、何日か粘ってもなんにも出て来なかったときは諦めてます、ゴメンナサイ。

 管理人も所詮この程度の人間です。ホンマすんません。



 

 以上でございます。

 あー、こういう記事って、やっぱり肩凝るね。

 でもなんとか、私の真意を伝えたくて、頑張って書いてみました。

 今後ともよろしくおつきあいいただければ幸いです。




 朔拝

引退ノススメ

 基本、時事ネタはあまり書かないことにしてるんですが、たまには。

 あの人、またやらかしましたね。

 そう、森さんですよ。

 私と同じ年代の人なら、「森と言えば失言。失言と言えば森」くらいの認識はあると思う。

 この方、定期的に大きな失言をやらかす方で、20代くらいからもうその認識を持っていた当方としては、

(そんなやつがなんでまだ第一線なん…?)

という点が軽くホラーではある。




「女性が参加した会議は長い」

 んでしたっけ。今回の失言。

 なんか、国内だけでなく世界中から顰蹙のバッシングをくらって、慌てたのか、謝罪をなさったようですけど、いやいや、この人の中に女性に対する尊敬なんか1ミリもないことは、よく知られた事実だと思う。

 少なくとも私はその認識でした。



 何度も書いてますが、私は47歳にして未婚の独身です。当然子供もありません。

 多様性を認め合う社会になってきて、私のような立場の人間が世間様から石を投げられなくなったことはありがたいと思いつつ、少子化を促進していることに関しては、申し訳ないなあ、と思っております。



 でもね、この人がかつて言った、

「子供を産んでない女性に税金を使うな」

的な発言については、とんでもねーな、としか思わんわ。

 というか正直、

「はあ?」

ですよね。

 何言ってんですかね。マジで。

 日本の少子化が進むのは、私のような人間とか、同性愛者とか、「結婚して子供を産む」選択をしない人たちのせいじゃないでしょうよ。

 

「産みたいのに産めない」

 

 これが大問題なんでしょうが。



 異性同士で結婚して、子供を持ちたいのに、女性側の会社に理解がなかったり、経済的な問題だったり、待機児童の問題だったり、なんだかんだで、「産みたい人が安心して産める」社会を実現していないことこそが少子化の肝だと、私は理解している。

 だってそうじゃない? 産みたい人が安心して産めるのなら、こんなに問題になってないよ。

 でもそうじゃない。産みたくても、心安らかに産めない現実。「逃げ恥」の新春特番では、その現実を描いて秀逸でした。




 産める人、産みたい人が、

「これだけ社会のサポートがあるなら何とかなるな! よっしゃ、産もう!」

と思えるなら、ここまで少子化になってないはずなんですよ。

 そのために税金を余分に収める必要があるなら、我々としても異論はないわけですよ。

 だけど、そうじゃないじゃん。

 実際は、子供一人産み育てようとするなら、その女性にめちゃくちゃ負担かかるシステムじゃないですか。

 だから産まない選択をする人が多いのであって。



 て言うかさ、そんな現実、一秒たりとも真剣に向き合ったことがないからこそ出てくる発言だと思うんですよね。

「子供を産んでいない女は」云々。




 でね、問題は、このジジイ一人が害悪なんじゃなくて、このジジイをのさばらせている周囲も同質で同罪という点なんですよね。

 この人がこの発言をしたとき、血相変えて「それはおかしいと思います!」と言った人が1人でもいたかどうか?

 いなかったみたいですね。

 おかしいと思ったかどうかすら怪しい。




 もう、こういう人がこの先変革するとか、そんなことは期待できない。

 今さらもう無理でしょう。

 それよりも、80過ぎたご老体である、のみならず、頭の中身も昭和からアップデート出来ていないことが明らかなこの人に、引導を渡せていないのが超大問題だと思う。

 

 

 でもさあ、女性蔑視のすべての人に対して思うんだけど、

「自分、誰から生まれたん?」

て問いただしたいよね。

 この見た目いかついお爺ちゃんだって、かつては赤子で、お母さんのおっぱいを飲んで、げっぷの世話もしてもらって、おむつを換えてもらったはずなんですよ。

 お母さんはお〇ん〇んの皮の間の〇ンチを丁寧に拭いてあげたりしたはずなんですよ。

 それはもう、人は誰しもそうなんですけどね。

 

 

 まあともかく、あなたの不明のあれやこれやも、年齢からくる耄碌ということで話がつくんだから、そろそろ引退しなされ、という話でした。

 

 

 

essay.8 47歳になっても「大人」になるのは難しいと分かった話。

 うーん、これは久々のessayシリーズということでいいのかな。

 以下、ネガティブな内容を含みます。

 閲覧注意。




 自分が思っている「自分」像と、他人から見た自分像って、まあ、違うじゃないですか。

 それは認識していたけど、まさかこれほどまでに乖離があるとは……と思い知らされたのが、ここ1~2年のことだった。



 いや、だからさあ、自分では出来てると思っていたことが、全然出来ていないわけですよ。

 やっているつもりが、人さまから見たら

「あの人なんなの。何やってるの? 寝てるの?」

レベルだったわけですよ。

 これで落ち込まない人がいるだろうか。

 いやいない(反語)。



 他にもコロナのあれやこれやと相まって、まあまあ落ち込んでいたのが2020年でした。

 三浦春馬くんの突然の訃報に驚いたときも記事にしましたが、

「落ち込んだときにふっと向こうへ行ってしまいたくなる」

みたいなことは、実際に私にもありました。

 それくらい、私にとっては辛い体験だった。



 自分で思っている半分も、役に立てていないんです。

 何やっても、必ず何かが抜けていて、「朔さん!!」と上司の叱責の声が飛んでくるんです。

 だから、自分の名前を呼ばれるのが怖くなった。

 呼ばれると必ず怒られたから。



 職場の仕事仲間に対しても、顧客の皆さんに対しても、(私なんかでごめんね…)という気持ちが常にあった。

 楽しい、遣り甲斐がある、と思って選んだ仕事だった。だけど、向いてないのがすぐに分かってしまった。

 出来れば、私じゃなくて、他にもっと適性のある、しゃんとした人の方がいいんだろうな、とずっと思っていた。

 だから、(私はここで必要のない存在なんだな)という気持ちが拭い難くあった。




 この流れなら、私が実年齢よりも一回り下に見られて意気消沈する理由が分かっていただけるだろうか。

 何かやらかすたび、

(今まで生きてきて何やってたんだ)

と自分に呆れる思いだった。

(バカなのかな?)

とか、

(脳みそが寝てるのかな?)

とか、

(ていうか、マジでやる気あるの??)

とか、自分自身を罵倒することは、本当に山のようにあった。




 この、私の「熟してなさ」具合に関しては、以前essayシリーズで書いた「自己肯定力」に原因があると私は思っている。

 これについては、稿を改めてまた書きます。




 人って、自分を責めて、落ち込んで、失敗してまた責めて……というのが続くと、より深刻な打撃がやってくるじゃないですか。

 つまり、

(自分って、存在価値あるのかな?)

という根源的な問いですよ。

(生きてていいのかな?)

でもいいですけどね。

 ともかく、普段は9割がたポジティブ思考で、自分の存在価値を疑うことなぞほぼなかった私が、そこまで追い込まれた。

 もちろん、いつもじゃないんだけど、前回の失敗の記憶が新しいうちに、また次の失敗をやらかしたりすると、でそれが重なっていくと、さすがに自分というものを肯定的に捉えられなくなってくる。



 ところがここで、

(存在価値あるのかな?)

という問いに対しては、

(………いや、そりゃあるやろ)

てなるんですよね。

(生きてていいのかな??)

(いいと思います)

てなる。

 そこは、どんなに落ち込んでも、自分の在り方に対して否定的な感情に捉われても、揺るがなかった。

 それが多分、

自尊感情

 によるものなんだと思う。 



 これは本当にありがたかったですね。

 自分のイケてなさが分かっても、47歳なのに35歳に見られても、

「まあとりあえず、生きてりゃなんとかなる」

「まあまあまあ、頑張ろうや!」

 と思える。

 これはもう、理屈じゃなく、「親から大事にされた」記憶の賜物だと思う。

 自分で自分を「この世に必要」と思える感覚。




 自分で自分を「生きていていいのか」というレベルにまで否定する感情に対して、私はこれまで(そう思う人もいるんだ…)くらいに、まったくもって自分ごととして捉えていなかった。自分とは無縁だと思ってずっと生きてきた。

 ここへきて初めて、そういう思いに捉われることになって、

(あー、こういう感じなのか)

と得心した。

 1人暮らしだし、今コロナのせいもあって友人たちとも疎遠になっているし、特に私を必要としている他人の存在を感じない。

 私一人いなくなっても、特別迷惑をかけることもないな…と、考えがそこまで及ぶことが、何度かあった。

 ネガティブな感情って、抱き続けるのしんどいじゃないですか。だから私はすぐに

「まあそれは脇に置いといて」

といったん放置しちゃうんだけど、私にもう少し根性があって、鬱々と自己否定モードをこねくり回すガッツがあったなら、このブログももしかしたら途中で止まってしまって更新されず……ということになったかもしれん。

 幸か不幸か、ないんですけどね。そんな根性。

「鬱は心の風邪」「どんな人でもなり得る」というけど、ホントだな、と実感した。




 この文章を読んでもらえば分かると思うのですが、今は特に自己否定モードでもないし、鬱屈に捉われてもおりません。

 自分のイケてなさ具合は、これまでの積み重ねの結果というか、積み重ねてきたつもりが積み重ねてこなかった結果として、客観的に受け止めております。

 でね、自分が出来ていなかったことに気づくと、(じゃあ他の人はどうなのか?)てなるじゃないですか。

 これがね、(うわー全然出来てないじゃん……)という方が、結構いらっしゃる。

 他の人に配慮も気遣いもなく、自分が思ったまま、ぽーんと言葉を投げつけて、平気でいる人。

 で、こういう「思ったまま」を口にする人って、割と他人に対してマウントを取りたいがためだけにものを言ったりするんですよね。

 結果、周りの人は嫌な気持ちになる。後に残るのは、ご本人のささやかなドヤ感だけ。

 こういう方々、いわゆる「いいお年」なのに、大人げのない人たちね。割といません? 周りに。




 私は多分、これまでこういう人たちと同じ人種だったんだと思う。

 でもまあ、遅かったけど、気づくことは出来た。それはよかった、とポジティブに捉えている。

 これまでの自分の言動、浅ましさ、浅はかさを心底恥じて、今は粛々と改めることに精進しております。

 私の気遣いのない言葉で不快な思いをさせたり、傷つけたりしてきた人たちに対して、申し訳ないと心から思う。 

 昔の失敗が今頃鮮明に蘇ってきて、

(うわぁぁぁー!!)

と頭を抱えて床をゴロンゴロンしたくなる。




 で、他人に対する気遣いが息をするように自然に出来る方々もいらっしゃるわけですよ。

 そういう方々は、配慮していること自体を表に出さないので、無神経な人にはその配慮も分からなかったりするんだ。

 そういう人たちの素晴らしさにも気づくことが出来るようになった。

「空気を読む」って、悪い意味に使われることもあるけど、やはり場を弁え、自分の立場を弁え、他の人たちの感情を傷つけないように、言葉を選んでものを言うって、めちゃくちゃ大事だと思う。

 こういう気遣いが出来る人が「大人」ということだと思うんです。

 なので、ここ1~2年で私の言動はかなり変わってきたと思うんだけど、「大人とは何か」についてはまた次回。




 ともかくも、性格の如何に関わらず、人生における精神的な危機はやってくる、という話。

 で、「自己肯定感」については、両刃の剣で、持ってりゃいいというもんじゃない、というのが今の私の見解だけど、「自尊感情」というのは重要で、最終的に人を救うのはこれだ、と思ったことでした。

魔性の若見えBBA

 一口に

「若く見える」

と言っても、多分それには2種類あるのだと思う。

 この場合、単なるお世辞や嬉しがらせは除きます。



 まずは、多くの人がポジティブな意味で使う「若く見える」。

「年齢を感じさせない」のは、経年劣化というか、衰えを感じさせないということで、ぷりっと皮が張っていて光っている葡萄の果実のような、フレッシュで瑞々しいイメージがこれに当たる。

 肌にハリと艶があって、内側から光り輝いている感じ。

 17~25歳くらいの女性だと、特に手入れなんてしてなくても、本当にこんな感じで、これはもう若さゆえの財産ですわね。

 年齢を重ねても、この「瑞々しさ」を失わずにいる人はいる。

 世の女性たちは、こちらの意味での「若々しさ」を目指して、日夜美容に努力を重ねるのだろう。



 もうひとつが、私が前章で自分ごととして書いた、「大人になりきれていない」と言う意味での「若く見える」。

 こちらは、ぱっと見の印象や挙措に、大人らしい落ち着きや物慣れた様子がなく、枯れてもいないけど熟してもいない。

「若く見える」というよりは「年齢不詳」。

 外見と中身が100%合致する人ばかりじゃないので、話してみるととても大人だった、という人もいるだろうと思う。

 が、私の周りにいるこういうタイプ、自分も含め、割と外見の印象を裏切らないことが多いな、というイメージ。




「若く見える」

というのが、例えばかなり寝かせたワインなのに、軽やかな果実味とフレッシュさもありつつ、味わうとどっしりとした土の香りも感じるような、フルボディの赤、みたいなゴージャスな感じだと、最高だと思うんだ。

 だけど、自分の若見えはどうやら、いい加減熟成してもいいくらい寝かせたはずなのに、なんかもう一つ旨味が出てない味噌というか、美味しくなってないカスカスのぬか漬けというか、うーん、どうも自分の例えだとショボくなるな。和テイストだし。

 だから、もしかすると

「フレッシュに見えますね!」

という意味で(お世辞も込みで)言ってくれた言葉だったとしても、受け取る方としては、

「漬かってませんね」

と言われたぬか漬けのナスの気分……と言って伝わるかなー。伝わり辛いかなー。




 前の記事にも書いたように、肌の手入れはそれなりにしてます。

 16のときに日焼けするのをやめたので、年齢の割に肌は傷んでない方だとは思う。シミやシワも比較的少ないのは確か。どちらもちゃんとありますけどね。

 年相応に見られるには、じゃあそういうお手入れをやめればいいのかと言えば、それはそれでねえ。

 熟さずにそのまま干からびたみたいになるのもイヤだし。



 

 まあでも多分、若く見られても、老けて見られても、みんなそれなりに外見て悩みの種なんだろうな。

 めっちゃ努力してるのに年相応にしか見られない……というお悩みもあるだろうし。

 そして多分、私の悩みなんか、家庭のある人からすれば所詮優雅な独身者のタワゴトに過ぎないんだろうとも思う。 




 前述したような、よく出来たフルボディの赤ワインのフレッシュさと円熟味を兼ね備えた「大人の貫禄」が欲しかった私ですが、今のところ到底それは無理そうだ。

 ただ、今の職業で、人にあることを指導する立場なんですが、そのユーザーさんからは、

「ちゃんとやればあなたのように若くいられるのね!」

と、希望を持ってもらえているみたいだ。

 厳密に言えばそうではないんだけど、まあ、結果オーライでそれでもいっか!と、受け入れる境地に達しつつある。

 こうなったらもう、実年齢を知った人を漏れなく

「ええっ!?」

と混乱に陥れる魔性の若見えBBAを目指そうかな、と。

「35歳に見える47歳」って、多分私の他にもまあまあいるだろうけど、「35歳に見える50歳」だとかなり減ってくるだろうし、「35歳に見える55歳」ならぼちぼちどっかから取材が来るかもしれん。

 せっかくなんで、いけるところまでいってみようかと思っております。

 そんな47歳の誕生日でした。

 

「外見」と内面の狭間で ②

 私も女性なので、人並みに紫外線ケアなんかもしてきたし、お肌のお手入れも一応してきた。一応ね。それほど熱心とは言えないけど。

 だから、若く見えるのがイヤだからと言って、何ももっさり老け込みたいわけではない。

 でも、47歳なのに35歳くらいに見られるというのは、幾らなんでも実年齢との間に乖離があり過ぎる。

 



 未婚・独身の私が、既婚の経産婦と比べて若く見えるのは、それはもう当たり前だと思う。

 結婚も妊娠も出産もしてないんだから。どれひとつとっても、人生の一大イベントで、女性の心身をゴリゴリに削ってくるじゃないですか。これを普通の顔でこなしている人たち、凄い。マジでエライと思う。

 出産した後は子育てが待っている。子育てこそ、思う通りにいくことなんて何ひとつない。不測の事態の連続。そして親の側には選択の余地がないことも多い。つきあいたくない人とも、子供が関わると思えば、のみこんで我慢しなければならない。

 それを思うと、「一般の主婦」とされている女性が、子供を育てあげるまでに分泌したストレスホルモンの総量は、えらい数字になるんじゃないかと容易に推測される。

 未婚で独身だと、それがぜーーーんぶ免除されているわけだ。

 忙しいと言ったって、家に帰れば自分の時間。家事だって、やった方がいいけどやらなくても誰にも迷惑かけない。自分が困るだけ。

 めんどくさくて晩ごはん抜いたって怒られないし、シンクに洗い物どっちゃりでゆっくり長風呂する自由もある。

 主婦に比べたらどれだけイージーモードか。




 だからその分、ライフステージに差は出てくる。

 ストレスを免除されているということは、人生の修養というか、鍛錬の機会もなかったということと同義だ。

 独身者が全てとは言わないが、既婚者が通らざるを得ない関門を通らずに生きてきているので、練れてはいない。感性が若者のまま、はっきり言って「幼い」と表現してもいいだろうと思う。

 成人した子供がいる47歳と、未婚独身の47歳とでは、魂の磨かれ方がまるで違う。



 もちろん、結婚や子供を持つことだけが人生の鍛錬なわけではない。

 親の介護だったり、まったく別の方面で言うに言われぬ苦労をして、自分なりの哲学を得ている独身の人格者だっているだろうと思う。

 ただ、私はそうではなかった。



 今の職場、入ったばかりのときにはよくめちゃくちゃ怒られた。

 他の人が普通に出来ることが、私には出来ない。というか、そもそも分かってなかったりする。

 自分では出来ているつもりでいたことが、まったく出来ていなかったことに気づかされた。

 それは何も、未婚で独身だから、というだけではなくて、私個人の資質とか、生育環境とか、複合的な理由によるものだと思うけれども。



 だから、「未婚・独身」という一括りではなく、私自身の話として言おう。

 私は、大学を出てから1人で生きてきて、それなりに苦労もしてきたと思っていたけど、そうではなかったらしい。

 47年生きてきて、今まで何をやっていたんだ、と、茫然とする思いに捉われることも多かった。

 いい大人のつもりだったけど、全然そうではなかった。

 まったく熟していない、大変残念な人である自分を発見してしまった。




 となると、「色々頑張って獲得したものがあるのに、人生の蓄積がないように見られるのは嫌だ」と思っていたのも、勘違いしていたことになる。

 人生の蓄積が、実際に「ない」のだ。

 生きてきた時間がその人の上に降り積もって、年相応の見た目になる。

 私には降り積もっていないのだ。

 だから、47歳にもなって、35歳くらいにしか見えないのだと思う。

 私を若く見る人たちは、多分、正確に私の「熟してなさ」を見てとっているんじゃないかと思うようになった。




 女性に対して

「若いね!」

とか

「その年齢に見えない」

というのは、言う方はほぼ100%褒め言葉のつもりで言っている。

 それは分かるから、言われたら

「ありがとうございます」

とお礼を言うし、その場の雰囲気を壊さないために

「嬉しいです」

とも言う。若く見られて嬉しいのではなくて、褒めてくれようとしているその気持ちが嬉しいのは事実だから。

 ただ、「ええっ40代!?」と驚かれるたびに、内心(そうか……)と、寂しいというか、がっくりくる思いがしているのも事実。

 それは私がやってきたことが私自身に返ってきているだけだから、言う人に対してはなんとも思わないんだけれども。




 まあでもアレだ、自分の「外見」に満足している人って、どれだけいるんだろう。美人とか不細工とかそういう次元でなく、見た目の印象と自分の中身とのズレや、あるいは私みたいに、自分の内面が外見に滲み出ていることに打ちのめされたりとか、「外見」に悩んでいる人は少なくないんだろうな。

 私の場合、正確に言うと「外見」の悩みだと思っていたら実は内面の問題でした、ということなので、深刻度はより増すんだけれども、努力でなんとかなると言えばなる。

 うーん、実年齢にふさわしい円熟味とか貫禄とかを身に着けて、年相応に見られるようになるのはいつの日なんだろう。

 自分のイケてなさが酷すぎて、それを考えると気が遠くなる。




 というわけで、特にオチとか結論はないんです。

 ただね、やっぱり、褒め言葉だと思って言っても、言われた当人が嬉しいかどうかって分からないので、人の外見に対する批評とか感想とかは、軽々に口にしない方がいいな、と思いました。