おっさんずラブが好き!

ドラマ「おっさんずラブ」の細かすぎるレビューブログ。OLの深い沼にハマって当分正気に戻れません。ほぼおっさんずラブの話題しかないかもしれない。ネタはバレまくりなのでご注意を。

essay.8 47歳になっても「大人」になるのは難しいと分かった話。

 うーん、これは久々のessayシリーズということでいいのかな。

 以下、ネガティブな内容を含みます。

 閲覧注意。




 自分が思っている「自分」像と、他人から見た自分像って、まあ、違うじゃないですか。

 それは認識していたけど、まさかこれほどまでに乖離があるとは……と思い知らされたのが、ここ1~2年のことだった。



 いや、だからさあ、自分では出来てると思っていたことが、全然出来ていないわけですよ。

 やっているつもりが、人さまから見たら

「あの人なんなの。何やってるの? 寝てるの?」

レベルだったわけですよ。

 これで落ち込まない人がいるだろうか。

 いやいない(反語)。



 他にもコロナのあれやこれやと相まって、まあまあ落ち込んでいたのが2020年でした。

 三浦春馬くんの突然の訃報に驚いたときも記事にしましたが、

「落ち込んだときにふっと向こうへ行ってしまいたくなる」

みたいなことは、実際に私にもありました。

 それくらい、私にとっては辛い体験だった。



 自分で思っている半分も、役に立てていないんです。

 何やっても、必ず何かが抜けていて、「朔さん!!」と上司の叱責の声が飛んでくるんです。

 だから、自分の名前を呼ばれるのが怖くなった。

 呼ばれると必ず怒られたから。



 職場の仕事仲間に対しても、顧客の皆さんに対しても、(私なんかでごめんね…)という気持ちが常にあった。

 楽しい、遣り甲斐がある、と思って選んだ仕事だった。だけど、向いてないのがすぐに分かってしまった。

 出来れば、私じゃなくて、他にもっと適性のある、しゃんとした人の方がいいんだろうな、とずっと思っていた。

 だから、(私はここで必要のない存在なんだな)という気持ちが拭い難くあった。




 この流れなら、私が実年齢よりも一回り下に見られて意気消沈する理由が分かっていただけるだろうか。

 何かやらかすたび、

(今まで生きてきて何やってたんだ)

と自分に呆れる思いだった。

(バカなのかな?)

とか、

(脳みそが寝てるのかな?)

とか、

(ていうか、マジでやる気あるの??)

とか、自分自身を罵倒することは、本当に山のようにあった。




 この、私の「熟してなさ」具合に関しては、以前essayシリーズで書いた「自己肯定力」に原因があると私は思っている。

 これについては、稿を改めてまた書きます。




 人って、自分を責めて、落ち込んで、失敗してまた責めて……というのが続くと、より深刻な打撃がやってくるじゃないですか。

 つまり、

(自分って、存在価値あるのかな?)

という根源的な問いですよ。

(生きてていいのかな?)

でもいいですけどね。

 ともかく、普段は9割がたポジティブ思考で、自分の存在価値を疑うことなぞほぼなかった私が、そこまで追い込まれた。

 もちろん、いつもじゃないんだけど、前回の失敗の記憶が新しいうちに、また次の失敗をやらかしたりすると、でそれが重なっていくと、さすがに自分というものを肯定的に捉えられなくなってくる。



 ところがここで、

(存在価値あるのかな?)

という問いに対しては、

(………いや、そりゃあるやろ)

てなるんですよね。

(生きてていいのかな??)

(いいと思います)

てなる。

 そこは、どんなに落ち込んでも、自分の在り方に対して否定的な感情に捉われても、揺るがなかった。

 それが多分、

自尊感情

 によるものなんだと思う。 



 これは本当にありがたかったですね。

 自分のイケてなさが分かっても、47歳なのに35歳に見られても、

「まあとりあえず、生きてりゃなんとかなる」

「まあまあまあ、頑張ろうや!」

 と思える。

 これはもう、理屈じゃなく、「親から大事にされた」記憶の賜物だと思う。

 自分で自分を「この世に必要」と思える感覚。




 自分で自分を「生きていていいのか」というレベルにまで否定する感情に対して、私はこれまで(そう思う人もいるんだ…)くらいに、まったくもって自分ごととして捉えていなかった。自分とは無縁だと思ってずっと生きてきた。

 ここへきて初めて、そういう思いに捉われることになって、

(あー、こういう感じなのか)

と得心した。

 1人暮らしだし、今コロナのせいもあって友人たちとも疎遠になっているし、特に私を必要としている他人の存在を感じない。

 私一人いなくなっても、特別迷惑をかけることもないな…と、考えがそこまで及ぶことが、何度かあった。

 ネガティブな感情って、抱き続けるのしんどいじゃないですか。だから私はすぐに

「まあそれは脇に置いといて」

といったん放置しちゃうんだけど、私にもう少し根性があって、鬱々と自己否定モードをこねくり回すガッツがあったなら、このブログももしかしたら途中で止まってしまって更新されず……ということになったかもしれん。

 幸か不幸か、ないんですけどね。そんな根性。

「鬱は心の風邪」「どんな人でもなり得る」というけど、ホントだな、と実感した。




 この文章を読んでもらえば分かると思うのですが、今は特に自己否定モードでもないし、鬱屈に捉われてもおりません。

 自分のイケてなさ具合は、これまでの積み重ねの結果というか、積み重ねてきたつもりが積み重ねてこなかった結果として、客観的に受け止めております。

 でね、自分が出来ていなかったことに気づくと、(じゃあ他の人はどうなのか?)てなるじゃないですか。

 これがね、(うわー全然出来てないじゃん……)という方が、結構いらっしゃる。

 他の人に配慮も気遣いもなく、自分が思ったまま、ぽーんと言葉を投げつけて、平気でいる人。

 で、こういう「思ったまま」を口にする人って、割と他人に対してマウントを取りたいがためだけにものを言ったりするんですよね。

 結果、周りの人は嫌な気持ちになる。後に残るのは、ご本人のささやかなドヤ感だけ。

 こういう方々、いわゆる「いいお年」なのに、大人げのない人たちね。割といません? 周りに。




 私は多分、これまでこういう人たちと同じ人種だったんだと思う。

 でもまあ、遅かったけど、気づくことは出来た。それはよかった、とポジティブに捉えている。

 これまでの自分の言動、浅ましさ、浅はかさを心底恥じて、今は粛々と改めることに精進しております。

 私の気遣いのない言葉で不快な思いをさせたり、傷つけたりしてきた人たちに対して、申し訳ないと心から思う。 

 昔の失敗が今頃鮮明に蘇ってきて、

(うわぁぁぁー!!)

と頭を抱えて床をゴロンゴロンしたくなる。




 で、他人に対する気遣いが息をするように自然に出来る方々もいらっしゃるわけですよ。

 そういう方々は、配慮していること自体を表に出さないので、無神経な人にはその配慮も分からなかったりするんだ。

 そういう人たちの素晴らしさにも気づくことが出来るようになった。

「空気を読む」って、悪い意味に使われることもあるけど、やはり場を弁え、自分の立場を弁え、他の人たちの感情を傷つけないように、言葉を選んでものを言うって、めちゃくちゃ大事だと思う。

 こういう気遣いが出来る人が「大人」ということだと思うんです。

 なので、ここ1~2年で私の言動はかなり変わってきたと思うんだけど、「大人とは何か」についてはまた次回。




 ともかくも、性格の如何に関わらず、人生における精神的な危機はやってくる、という話。

 で、「自己肯定感」については、両刃の剣で、持ってりゃいいというもんじゃない、というのが今の私の見解だけど、「自尊感情」というのは重要で、最終的に人を救うのはこれだ、と思ったことでした。