今日、1月17日は、阪神淡路大震災から24周年の記念日でした。
当時から関西に住んでいる者として、記しておこうと思います。
おっさんずラブ関連の記事ではありませんので、興味のない方はスルーを推奨します。
が、ちょっとでも興味があれば、さらっと目を通していただければ幸いです。
いやもう正直な話、あれからもう24年経つなんて、信じられないというのが実感です。24年て。生まれた子供がとっくに成人している時間が過ぎたってことですよね。
よく、昔の記憶を「つい昨日のことのように…」と表現するけれど、あれは比喩じゃなく、本当にそんな感じ。
当時私は大学生で、折しも試験シーズンだったので、寝ずに勉強していた。もちろん外は真っ暗、辺りはしーんと静まり返っていた。
そんな中、突然何か異音がした。それが地鳴りだと気づくまでに結構時間がかかった。ゴゴゴゴゴゴ……という不気味な響き。
私がとっさに連想したのは、(どっかのアホな国が徒にミサイルか新型爆弾でも落としたか…!?)というものだった。
それくらい、馴染みがなく、今まで聞いたことがない音であり、なおかつ、広範囲にわたって多数の人が聞いていそうな、物凄い音だったのだ。
ドラマ「BRIDGE」の出演俳優松尾諭氏が「ポルターガイストかと思った」と言っていたけど、その気持ちはよく分かる。人はとっさに、聞いたことのある何かと結び付けて連想するんだな。我々にとっては、それがもう、映像の中にしか資料がなかったということだ。
地鳴りから20秒だったか30秒だったか、正確なところは憶えていない。ともかく、そのうちに揺れがきて、(あ、地震だ)と気づいた。
結構大きな揺れではあったけど、立って本棚を押さえていたくらいだから、後から考えれば大したことはなかった。
狭い部屋を散らかし放題だったので、棚や机から何か床に落ちても、壊れることもなく、揺れが収まったあとは(うわー、結構揺れたな。ビックリしたー)で済む程度だった。
他の部屋から「揺れたな~」と先輩が出てきて(大学の寮だった)、「凄かったですね~」「テレビつけよ」と会話を交わす余裕もあった。
朝一はまだ普通にテレビ番組をやっていたんだけど、その時のニュース映像で、道路の高架が横倒しになっている衝撃的な光景を目にしたんだった。
なんじゃこりゃ!!とビックリして、すぐ親に電話しに走った。ちょっと離れたところに公衆電話があったんですね。
地震発生後すぐの時間は、まだ電話は普通に使えました。親もビックリしていて、
「なんかすごい地震だったけど、無事だからね」
と伝えて電話を切った。
その後の混乱は、色んな記録に残っている通り。
朝7時くらいのニュースでは、行方不明者が10人前後とか、そんな数字じゃなかったかなあ。
そのとき既に、(どんどん増えるだろうな)という予感はあった。あったけどまさか、まるでネズミ算のように数字が膨れ上がるとは思ってもみなかった。
あっと言うまに3桁に到達し、4桁になる頃にはもう、勘弁してくれ……とすがるような思いになったものだ。けれどもその後も死者・行方不明者を示す数字は無情に増え続けた。
私が親と話をした直後から、電話はほぼ不通になった。今と違って、誰もが携帯電話やパソコンを持っている時代でもなかった。情報はテレビとラジオのみ。辺鄙な場所だったので、ラジオは電波が不安定で聞けなかった。頼みのテレビは、各局どこも震災のことばかり報道していて、被害が尋常でないこと、神戸が瓦礫の山と化したこと、道路は分断され、物資も救急車も消防車も被災地にたどり着けないことなど、状況が絶望的になっていく様子を映し出していた。
神戸には友人・知人がたくさん住んでいて、その人たちの安否もなかなか分からなかった。
そのうち、身元が判明した死者の名前がテレビのテロップで延々流されるようになり、まさか、まさかと思いながらも、つい確認せずにはいられなかった。
幸い私の知り合いは皆無事だったけど、あんな思いは二度としたくない。
大学の校舎も、建っている方向によって、ガラスが割れてめちゃめちゃになった教室と、本が落ちたくらいで大したことなかった建物とあったが、周辺の被害はそれくらいで済んだ。
どの道もパニック映画みたいに大渋滞が続いていたこととか、コンビニの食品棚がしばらく空っぽだったこととかは憶えているけど、生活において何か困ったという記憶はない。多分、普通に暮らせていたんだと思う。
それも、大学から激近の場所に住んでいたお陰で、電車で通学していた学生達や、車で出勤していた教授・講師の皆さんは、しばらくの間相当な不便を強いられたはず。
記憶にこびりついて離れないのが、火の海になった神戸の街の様子だ。崩れた瓦礫のあちこちで黒い煙が上がり始め、やがて炎となってあっという間に広がった。消そうにも、消す手段がない。何しろ消防車が通れないんだから。
瓦礫の下にはまだ、生きている人たちが大勢いたのに、煙が充満し、炎に焼き尽くされていくのを、ただ黙って見ているしかなかった。
テレビで見ているだけだった私ですら、今日にいたるまでその光景を忘れることが出来ない。
現地にいた人たちの胸中はどんなだったかと思うと、ちょっと言葉が出てこない。
最終的な死者数6,434人。
歴史に残る大災害となった。
私にとっては、日常が突然ぐるっと引っ繰り返った、人生で最初の出来事だった。
地震は何しろ、地球の地殻変動によるものなので、人間の都合なんかおかまいなしだ。
本当に、時と場所を選ばず、突然やってくる。
私は日本に生まれてよかったと思っているし、色々言いたいこともあれど概ね住みやすいよい国だと思う。がしかし、これだけ活火山があって、プレートの狭間にあって、しょっちゅう噴火や地震に見舞われていて、しかも海に囲まれた狭い国土に人がひしめき合って住んでいる国だということも、忘れてはいけないと思う。
何しろ、南で栄えていた縄文文化は一度、「喜界カルデラ」の大噴火によって全滅してますからね。全滅ですよ。「殲滅」と言ってもいい。その時の火砕流の痕跡が大阪辺りでも見つかるというんだから、どれだけ規模の大きい噴火だったか分かろうというものだ。
そういう国に住んでいるのです、我々は。
その喜界カルデラの大噴火が7300年前。7000年やそこら、地球時間からすれば、ほんのちょっとの時間でしかない。
それに対して、我々人間は、どうしても自分の一生分の時間で物事をとらえてしまう。そこへもってきて、「平常時バイアス」(これも震災で有名になりましたね)が深刻な状況を勝手にポジティブに捉えようとする。「自分だけは大丈夫だろう」みたいな根拠のない思い込み。
地震や噴火のような自然災害にあたっては、最大の敵はこの「平常時バイアス」と言ってもいいかもしれない。
「喉元過ぎれば熱さ忘れる」とも言いますが、忘れるのが早すぎるんだよね。。。
なので、阪神淡路大震災といい、東日本大震災といい、「語り継ぐ」「風化を防ぐ」のは大事なんだけど、何のためにそうするのかと言えば、
「いつ来るか分かんないよ!!!」
と、若い人たちに知ってもらうためだ。あの時こんなに大変だった、という苦労話を聞いて欲しいわけじゃなくて。
備えておきさえすれば、防げることがたくさんあるのだ。そこを教訓として生かすのが、二度も甚大な震災を経験した私たちの務めだと思う。
おっさんずラブの録画を何度も見て、泣いて笑って、牧が切ないとか、はるたんがひどいとか言っていられるのも、電気が通じていて、水道もガスも使えて、という「ごく普通の暮らし」があってこそ。
いつもいつもそんなことを考えておく必要はないかもしれないけど、やっぱり心の片隅にはとどめておいた方がいい。
ところで、去年は地震だ台風だ大雨だと落ち着かない年でしたね。私がツイッターを始めたのは、おっさんずラブのせいもあったけど、ちょうどタイミングよく…と言おうか、大阪周辺を襲った地震があった影響も大きい。
興味ない方に無理に押しつけるつもりは毛頭ありませんが、ツイッターかライン、どちらかやってると、非常時の情報はいち早く得ることが出来るということは言っておきたいと思います。