おっさんずラブが好き!

ドラマ「おっさんずラブ」の細かすぎるレビューブログ。OLの深い沼にハマって当分正気に戻れません。ほぼおっさんずラブの話題しかないかもしれない。ネタはバレまくりなのでご注意を。

essay.1 「本当にそうか?」

 前の記事に反応いただきありがとうございます。

 リクエストがあったので、書いていきたいと思います。



 書き始めた動機は、巷を騒がせている痛ましい事件であることに違いありません。

 が、そのことに関して、何か自分の意見を声高に言いたいわけじゃないんです。

 ただ、ここを読んでくださっている読者の方に向けて、もしも私の知見が参考になるなら、書く価値があるかな、と思ったまでで。

 なので、検索よけにタイトルは「essay」とします。

 断るまでもありませんが、読みたい方だけ読んでください。




 私が打たれ強い性格になった理由、考えてみたんだけど、色々色々ありすぎる。

 なかなかまとめて書くのは難儀なので、(これかな?)と思いついたのを適宜書いていくスタイルにします。



 でもやっぱ、うちの教育方針は大きかったと思うんですよね。

「よそはよそ、うちはうち」というのが、我が家は割と徹底していたと思う。

 例えば小学生の低学年のとき、田舎の小学校のこととて、集団登校であった。

 ピーカンなのでスニーカーを履いていきたいが、

「長靴を履いていきなさい」

と祖母に言われるわけだ。

「え、なんで」

「午後から雨が降るという天気予報だから」

 祖母の言は合理的なんですが、小学生にとって、周りのみんなが普通の靴を履いている中、自分一人長靴を履いていくのは、なかなかにキビシイ作業だ。

 注目を浴びるに決まっているし、どう考えてもカッコ悪いし、口の悪い男子が囃し立てるかもしれない。小学生男子ってなんであんなバカなんですかね。

 イヤだ、と断固拒否したいところだけれども、うちは子供に拒否権があるような家庭ではなかった。

 イヤだと言うと、理由を聞かれるだろう。

「え、だってちーちゃんもさなみちゃんも皆普通の靴だよ」

なんて答えようものなら、

「よそはよそ。うちはうち」

と言われる。

 あとはもう、抗議しても無駄だった。




 もう一つ。

「本当にそうか?」

と言うのも、よく聞かれた。

 みんなが当たり前だと思っていることでも、そのまま鵜呑みにせず、一度立ち止まって

「本当にそうか?」

と自分に問い直してみた方がいい。その習慣を身につけなさいと、口を酸っぱくして言われた。

 周りで大勢が同じ意見だからと言って、それが正しいとは限らない。

 よく考えもせず右に倣えというのは、厳に慎むべし、という母の教えは今でも私の中に生きている。




 なので、「常識」とされていることを、片っ端から(本当にそうかな?)と考えてみるのが好きな子供だった。

 女の子はスカートもズボンも履くのに、男の子はズボンだけで、スカートを履くとおかしいとされる。何故だろう?

 ませた女子はメイクに興味を示し、背伸びして唇に赤い紅を差す。なぜ人はわざわざ赤くした唇を美しいと思うんだろう?

 こういう思考遊びは、恐らく脳が一番発達する時期の小学校高学年~中学高校にかけてするには、最適だったのだと思う。

 上に挙げた例は、結局とことんまで考えて、男子がスカートを履く文化もある(英国のキルト等)、人は自然にまかせて放置したものよりも、人の手が入った人工的なものを美しいと感じる感性を獲得したとか、「それを文化と呼ぶ」のだ、という結論を得た。

 つまりは、「ところが違えば文化が違う」のであって、やはり絶対ではないということだ。

 逆に、昔からの言い伝え通りのことが結局合理的だった、ということもある。

 で、こういう「本当にそうか?」の先に、

「女性の人生のゴールは好きな人と恋愛して結婚して家庭をもうけることだと言われているけど、本当にそうか?」

というのもあるし、

「恋愛は男女間に特有の現象とされているけど、本当にそうか?」

という疑問も発生するわけだ。

 こうやって、自分の周りにあることをひとつひとつ考えて、なぜそうなっているのか、由来や合理性を検討し、自ら定義づけをしていった。

 

 

 

 ところで、私はいわゆる団塊ジュニアと呼ばれる世代で、小中高と、生徒数が非常に多かった。

 中学校は11クラスあり、1クラス40人以上いた。私たちが入学するときには教室数が足りず、プレハブの簡易校舎が作られていたほどだ。

 で、当時は徹底した管理教育が是とされていた。同世代の方なら記憶にあるでしょうが、登校すると先生たちがスカート丈を計ったりするアレですよ。

 私の中学も校則が細かく、すべてのものに華美は厳禁とされ、制服以外カバンも靴も何もかも学校指定で生徒全員が同じ恰好。私物である下敷きや靴下は白と決められていた。

 中学校入学当初、小学生のときから使っていた柄のついた下敷きを持っていって、先生に注意された。白いのを購買で新しく買え、と言うのですね。

 何故自分のを持っているのにわざわざ新しいものを買わないといけないのか?という質問に対して、

「校則で決まっているから」

という答えだった。

 なぜ校則でそう決まっているのか?に対しては、納得のいく回答はなかったと思う。

 生徒たちの多くが「校則で決まっているから」に大して反抗もせず従っていたが、私は納得できないことに唯々諾々と従うのは嫌だった。

 だっておかしいじゃん。学校は勉強するところであって、スカートが膝下何センチだろうが全然関係ないはずだ。

 しかし、当時の教師たちは、生徒たちをともかくも同じ基準の中に囲い込み、そこからはみ出そうとするのがいたら罰することに躍起になっているように見えた。

 それが教育なのか、と、当時中学生になったばかりの私は思っていた。

 今でも思っている。

 そんなの教育じゃない。



 まあそんな中、すべてに対して「本当にそうか?」をやっていたのだから、毎日非常に忙しかったのですよ。

 闘いの日々でしたね、今考えると。

 ホント言うと、そういうことを教えるのが真の教育なんじゃないですかね? これから先長い人生が待っている。自分で考えて、適切な選択を出来るようになるには、思考能力を高めなければならない。だからたくさんの仮説を与えて、「自分ならどうか」を考えさせる。

 私は暗記が得意で、勉強も好きだったけど、暗記が得意な人が高得点を取れるテストって片手落ちだとも思っていた。暗記=勉強じゃないもん。

 学校で先生が教えてくれないばかりか、邪魔をしてくる。今考えても最悪だったわ。

 まあでもそんな中、自分の頭でずっと考えていたわけです。

 反骨中学生ですね。




 続きます。