先日の新聞に、「アルフォンス・デーケン氏逝去」のニュースが載っていた。
その名前を見て、懐かしく昔を思い出した。
よく知っているわけではない。イエズス会の司祭とか、哲学者とか、そういうプロフィールは今回初めて知ったくらいだ。
でも、私にとっては少しだけ特別な人だった。
小さい時から本が好きで、小学校に上がる頃には、週末の図書館通いを楽しみにしている子供だった。
だから新学年になったとき、国語と道徳の教科書は真っ先に読んだ。まだ出逢ったことのないお話を知るのが楽しかった。
アルフォンス・デーケンという名前も、教科書で知った名前だ。確か中学生のときだったと思う。
「ユーモア感覚のすすめ」
というタイトルの、そのエッセイが、とても心に残るものだったのだ。
「ユーモアとは、『にも関わらず』笑うこと」
だというのが、その文章の主旨だった。
人にとって、笑いは大事だ。笑うとハッピーになる。落ち込んだ気持ちも前向きにしてくれる。
ただし、毎日暮らしていると、楽しいことばかりではない。とてもじゃないが笑ってなどいられない、という状況もまま起きる。
家族間で深刻な対立が起こったとき。何か外から圧迫されるような(借金とか)危機が家庭を襲ったとき。病気で長期にわたって入院治療が必要なとき。
それでも、笑うのだ。いや、だからこそ笑うのだ。
自分の力ではどうしようもないとき、
「あーもうどうすりゃええねん!!」
と、頭を抱えたくなる。何もかも投げ出したくなる。
そんなときは、落ち込んでいてもしょうがない。どうしようもないものは、どうしようもないのだ。
それならそれで、いったん脇に置いて、考えるのをやめる。
で、自分のことを責めるのもやめる。
(こりゃもうどうにもならんわ)
(私のせいじゃない)
(まあ、なんとかなる)
どれでもいい。自分の心を楽にしてくれる言葉を呟いてみる。
すると、肩から力がすっと抜ける。切羽詰まっていた心に、ちょっとだけ余裕が出来る。
余裕が出来ると、周りを見回すことも出来るのだ。追い込まれると、自分の状況を俯瞰で見たり、逆の立場から眺めてみたりしたくなりますよね。
不思議なもので、そういうのって、結構笑えるんだな。
(あーこれ傍から見てたら可笑しいだろうな…)
で、ホントに自分自身可笑しくなって、声に出して笑ったりする。
笑うと、
「ま、いっか! なんとかなる!」
と、元気が出るのだ。
私もこれまで数限りない失敗を人生においてしてきたけれど、過ぎてしまえば大概笑い話なのだった。
大学1年生のとき、自分で高速バスのチケットを取って帰省したんだけど、あれ、昔は大変だったんですよね。売り場に電話をかけて、早口のオペレーターとやり取りして希望の日時を押さえて、売り場までわざわざ買いに出かけなければならなかった。
で、買って、当日高速バスの乗り場まで行くわけですが、高速バスの乗り場って分かりにくいんですよね! 大抵駅とか、主要なバス停からちょっと離れたところにあって、まだ車を運転したこともなく、道路の状況も分かっていない子供には難しいミッションだった。
大学の寮から大荷物を抱えて出発し、バスと電車を乗り継いでやっと到着して、その間にも何度もチケットを持っているかを確認して、そわそわとバスを待つじゃないですか。
ところが、待てど暮らせど来ない。17:00のバスは大概17:10くらいまで遅れてくるから、そのうち来るさ……と思ってみても、来ない。
(あれ、道路混んでるのかな…)
来るバス来るバス全部別方面へ行くバス。30分を過ぎ、40分を過ぎたところで、さすがに(おかしい)と思った。
バス停に立っている時刻表で時刻を確認する。
「17:00のバス……あれ、ない……」
(ま さ か)
チケットを出して見る。まさか、まさかと思ううちから(絶対にそうだ)という暗い確信が生まれて、チケットを取り出す手が震える。
チケットに記載された時刻は16:00だった。
(1時間間違えとる…!!)
そう、私がウキウキとバス乗り場に到着したときには、既にチケットのバスはとっくに出発した後だったのだ。
バスのチケットを取るための労苦や、ここまで重たい荷物を抱えてやってきたエネルギーや、色んなことが走馬灯のように浮かんで、
(そんなぁ~~…)
と、へなへなとその場に座り込んでしまった。
薄暗い中、何とか見間違いであってくれ…と祈るような気持ちで穴が開くほど見つめたチケットが、わくわくと震えていたのを、今でも鮮やかに覚えている。
いやー、あんな絶望感もそうそうなかったね。
ところが座り込んでしばらく経つと、
(座っててもどうしようもない)
と気づくわけですよ。周りはどんどん暗くなってくる。早く判断しないと、今日どこで寝るのかも分からない。じーっとしてたって、誰かがなんとかしてくれるということもない。今のこの状況を何とかするのは自分の力のみ。
(ていうか今のこの状況、マンガみたいだな…)
と思った。大荷物を抱えた女の子が、バスが来るたびに首を長くして、ガッカリ…を繰り返した挙句、慌てふためいた様子でチケットを取り出して、しばらく固まった後へなへなと崩れ落ちたんだから、傍で誰か見ていたら、多分手に取るように事情が分かっただろう。
絶望を通り越して、なんか可笑しくなって笑っちゃったのも覚えている。
で、ここから先は私はあまり記憶にないんだけど、母によると、
「バスの時間間違えていて乗り過ごした。新幹線で帰る」
と電話してきて、その日のうちになんとか実家にたどり着いたそうだ。
「まあ、大失敗だったけど、自分でちゃんとなんとかしたのはエライ。大した根性だと思って感心した」
と言っていた。
実家大好きなので、休みに入ると同時に弾丸のように帰省していたから、その日帰らないという選択肢がなかったんでしょうね。
あの辺鄙なバス乗り場から、地下鉄で移動して、新幹線と特急電車を乗り継いで故郷まで行ったらしい。
まあこういう経験を繰り返して、人は逞しくなっていくんですな。
人生で何か危機が訪れるたび、
「とりあえずいったん脇に置く」
それから
「俯瞰で見てみる」
そして
「笑いに換える」
というのが、これまでの私の処世術だった。
この根底に、
「ユーモアとは『にも関わらず』笑うこと」
という、デーケンさんの言葉があって、本当にいつも、脳裏に刻み込まれていた。
私は、アルフォンス・デーケンという人に会ったことはないし、向こうも私を知らない。
けれども、中学生のときに教科書で出逢った彼の言葉が、私のその後の人生の支えとなってくれたのは間違いない。
誰かが発した言葉が、こうして、誰かに届いて、その人の人生を変えることもある。
言葉にはそういう力がある。
氏の訃報を見て、以上のようなことを思ったのでした。
氏が亡くなっても、私は彼のことも、彼の言葉も忘れない。
そして私からも発信したくなったので、この記事を書くことにしました。
謹んでご冥福をお祈り致します。
あなたの言葉はこれからも忘れずに生きていきます。
私の言葉も、誰かに届いて、ほんの少しでもその人を照らす光になれたらいいなあと思う。