改札を出る前に、(ICカードにチャージしようかな)という思いがよぎって、ちょっと迷った。
だから、改札を抜けるのと同時に券売機の方向へ目を向けたのは、私にとって自然ななりゆきだった。
私がそちらを見るのと同時に、小柄な男性が、頭頂部をこちら側に見せながら、DVDの巻き戻し映像みたいにおっとっとっと……と後ずさって、数メートルかけて倒れ込むのが見えた。若い女の子の身体にどんっと当たって、床に座り込んだ。
一瞬のことだったので、2人が連れなのかどうか分からなかったが、私の足は勝手にそちらへ向いていた。
男性は……というか、うーん、薄汚れた作業着を着てたから「おっちゃん」で差支えなかろう。おっちゃんは、柱のところで座り込んで、じっとしていた。
女の子は券売機で切符を買いながら、そちらをチラチラ見ている。困ったようで、でも心配そうな表情。
私は近づいて、女の子に
「大丈夫ですか?」
と聞いてみた。大丈夫、と頷いたので、続けて
「お連れの方ですか?」
と聞いた。違う、と言う。
「なら、駅員さん呼びますね」
改札のところへ戻り、係の駅員を呼んだ。
駅員はすぐに改札から出て、処置に当たってくれた。
酔っ払いなのか、具合が悪いのかは分からなかったけど、今から電車に乗るその女の子はきっと家に帰るところだろう。
「後はもう、大丈夫だと思いますよ」
と声をかけると、ほっとした表情で、
「ありがとうございます」
と笑顔になり、改札へ消えていった。
これが呼び水になったのか。
駅のロータリーで並んでバスを待っていた。向こうから、白杖をこんこんつきながら覚束ない足取りで歩いてくる男性がいた。70は出ているように見えた。
多分、会ったことがある……というか、何度か見たことのあるじいちゃんだった。
以前も、同じようにこんこん杖をつきながら歩いていた。点字ブロックに添って進んでいて、しばらく離れた先に、立ち止まって話し込んでいるカップルが見えた。カップルは点字ブロックのちょうど上に陣取っているのだった。
放っておいても、じいちゃんに気づいて場所を移動するかもしれない。でも、彼らはじいちゃんに背を向けておしゃべりを続けていた。気づかず、じいちゃんがどーんとぶつかってしまう危険性が、割とあるように思えた。
私は、そのカップルに近づいて、
「あのー、ここ、向こうから白杖の方が歩いてくるので…」
と注意喚起を行った。
すぐに気づいて、
「あ、どきます」
とどいてくれた。
だから、じいちゃんは我々の存在は気づいていないと思う。
まあともかく、私は見覚えのあるじいちゃんだったわけだ。バス停の前を通り過ぎたと思うと、戻ってきた。
ちょうど、待っていたバスが来て、皆乗り込み始めていた。私も乗り込んで、椅子に座った。搭乗口の真ん前にじいちゃんが立っていた。どうやら、このバスに乗りたいらしかった。
じいちゃんはまっすぐにつっきって、並んで待っていた人たちの列を無視して自分が乗り込んだ。後の人は抗議もせず、譲ってあげたようだった。
乗ってきたら、席を譲ってあげねば、と私はじいちゃんを見守っていた。
じいちゃんは、手にしたカードを搭乗口のカードリーダーにかざして、ピピー!と拒否されていた。本来かざす場所ではなく、斜め45度上に場所にかざしては、ピピー!と警告音が響いているのだった。何度鳴っても、じいちゃんは諦めず、もう一度かざしてはピピー!と拒否される、という作業を繰り返していた。
後ろにはまだ、ずらりと並んでバスに乗りたい人たちが待っていた。
私は見かねて、席を立ち、じいちゃんのカードを見た。交通系ではなく、福祉関係のカードのようだった。多分、降りるときに運転手に見せれば降りられるやつじゃなかろうか、と思われた。
「あのー、カード、違うみたいですよ」
と声をかけてみた。
じいちゃんはこちらに顔を向けず、横っちょを向いたまま、
「このカードや! わしはいつもこれで乗っとるんや!」
と譲らず、またしても間違った角度でそのカードをかざして、
「ピピー! このカードはご使用になれません」
と無機質な電子音声で拒否られていた。
もしかして角度の問題かもしれん、と、私はじいちゃんの手を取って、カードを当てようとしてみた。が、カードリーダーに近づくと、じいちゃんが勝手にまた斜め45度にしてしまうのだった。
「ダメみたいですよ」
ともう一度言ってみたけど、じいちゃんは横を向いて、ぶつぶつ文句を言っている。
手がなくなったので、私はすごすごと元の席に戻った。
すると、じいちゃんもそれなりに空気を読んだのかどうか、そのままバスの車内に乗ってきて、優先席に座り込んだ。
すかさず、運転手が
「降りるときにもう一度やってみましょうね」
とアナウンスした。
運転手さん、ならもっと前にソレ言ってくれよ……と思ったが、私は黙って座っていた。
何も声をあげず、大人しくじいちゃんを待っていた後ろの人たちが、続々と乗り込み始めた。
降りるとき、偶然にも、私と同じバス停でじいちゃんは降りた。
降り口のカードリーダーにかざすと、運転手が何か操作をしたのか、ごくスムーズにピッ!と鳴って、そのまま降りることが出来た。
続いて私が降りたのを、じいちゃんは知らないはずだったけど、
「だからこのカードで乗れるんや。なんやあのお姉ちゃん間違ったこと言いよって…」
とまだ文句をタラタラ言っていた。
うーん、これは私のことを言ってるんだろうな、でもごめんじいちゃん、「お姉ちゃん」じゃなくて割と大ババなんだ…と思いながら、私は反対方向へ歩き始めた。
それにしても、と今しがたの出来事を私は振り返った。
(私のしたことは、誰からも喜ばれなかったな)
と。
一応、後ろで待っている人たちのことや、じいちゃん本人のためによかれと思って、手助けしようと動いたわけなんだけど、当のじいちゃんは最初から最後まで文句言ってるし、後ろの人たちからしても、(なんや横からいらん口出しするから余計時間くったやないか)と思っているかもしれん。
降りるとき、運転手は私の存在を認識していたかどうか分からないが、無言だった。なんか一言あってもよくない?と一瞬思ったんだけど、
(いや、でも、私が余計なことをしなければ、もっと早くアナウンスして、事態はおさまったかもしれない)
と考え直した。
じゃあ、私は何もせずじっとしていればよかったのかと言えば、うーん、でも、目の前であんなことになっていれば、やっぱりまた私は口を出してしまうだろうと思う。
で、
(ま、世の中そんなもんやな)
と思った。
目の見えないじいちゃんが、周りに気を遣いまくって生きなきゃいけない、とも思わんし。多少周りに迷惑なことがあっても、仕方ないというか、ああいう感じになったら、その場に居合わせた人の中で、一番お節介な性質の人が、関わりを持つように出来てるんだ。
その挙句、その人の親切が空回りした形になって、誰からも特に感謝されなくて、なんだか割を食うことになっても、多分、そういう「ちょっとお節介な人」もこの世の中に必要なんじゃないかなあ。
今回は私がその役回りになったけど、また違う立場に立つことだってあるかもしれないし。
もしかすると、面倒なことに関わりあいになるのを避けて、何も口を出さず、傍観者に徹する、というのが、一番賢いのかもしれない。
でも、私にはそれは出来ない。その方がストレスに感じるだろう。
近所に住んでいるようだから、またあのじいちゃんに会うかもしれない。じいちゃんが何か困っていたり、これから困りそうだったら、私はまたついつい余計なお節介を焼いてしまうだろう。で、じいちゃんからは全然感謝されないかもしれない。
でもまあ、しょうがない。
ということで、
(ま、世の中こんなもんやな)
というのが、今夜の私の感慨だった。
信号待ちをしていて、ふと気づくと、足元に蟻の大行列ができていた。
3㎝くらいの幅の行列が、2m以上繋がっている。
どんな大物を見つけたんだ君たち!?とワクワクしたが、獲物を見つける前に信号が青になってしまった。
腰を折って、道路を凝視しながら、蟻の行列の行き先を辿るというのは、さすがに47歳の行動としては奇行が過ぎる……と、断念した。
蟻たちの獲物に未練を残しながら、青信号を渡った。
世の中こんなもんだ。
うん。