さて、今年も私が「圧倒的マイノリティ」となる季節がやってきた。
そう、桜が咲く季節である。
日本人はほんとーうに桜が好きですよね。だって、「花」と言えば桜のことをさすんですよ? 他にも梅や桃や木蓮や水仙、紫陽花や蓮の花、菖蒲や向日葵、たくさん花の種類があるというのに、何の断りもなく勝手に「花界代表」にしちゃってるんですよ?
まあ、ね、四季がある国のこととて、冬の寒さがゆるんで、暖かく日が差す春の訪れとともにやってくる桜の開花は、いかにも「幸運」「幸せ」というイメージと結びついて、受け入れやすかったのは分かります。
そして、咲いたかと思うとすぐ散る。しかも、はらはらと風に舞い、雨など降ろうものなら一気に散ってしまう。
その儚さが、諸行無常とかそういうものを好む日本人の情緒にドンピシャで合ったんだろう。
以前も書いたが、私は桜が好きではない。
一番の理由は、「桜の季節に嫌なことがあって、桜を見るとどうしても思い出してしまう」ということが大きい。花に罪はないことは理解しているが、思い出してしまうものは仕方ないので、私にも別に罪はないと思う。
自分がキライだからと言って、
「桜なんて有害な花、植えていてはいけません!」
なんて主張をするつもりは毛頭ないし、桜の花の枝を折ったりする愚かな真似もしない。
出来るだけ見ないようにして(満開の季節はなかなか難しいけど)、散るのを黙って待つ。それだけだ。
別に、誰にも迷惑はかけていないと思う。
でも、そもそも、奈良や平安のお貴族さま達が「しづ心なく花の散るらむ」なぞと雅なお歌を詠んでいたときと、今の私たちが目にする桜とでは、まったく風景が異なるはずなのだ。
ソメイヨシノという品種が開発されたのは江戸後期。そして、日本全国に植えまくられたのは昭和になってからの話。
同じ時期、一斉に開花するなんて、桜(ソメイヨシノ)だけですやん? しかもあんな近接してぎゅうぎゅうに植えて、不自然じゃない? …というのは、前から思っていた。
実は、全国のソメイヨシノは1本の樹のクローンであるというのは、今では有名な話だが、初めて知ったとき、私は(あー、それでか)と腑に落ちる思いだった。
「不自然」と感じたのは、あたっていたんだな、と。
もう一つ、これも以前書いたが、「花見」の風習が、私の桜嫌いに拍車をかけた。
正確に言うと、「都会の花見の習慣」だ。花見のために早くからブルーシート敷いて陣地取りしたりするアレね。そんで、花が咲けば酒を飲んで酔っ払い、大騒ぎをする。あれ、楽しいんですかね? 私には醜悪な風習としか思えない。
桜を愛でるのなら、酒など飲まず、落ち着いて桜を見ればいいじゃないか。
「お花見」と称して飲食している人たち、まともに桜の美しさを鑑賞しているとは思えない。
ていうかさ、私、自分も酒飲みだから分かるんだけど、呑兵衛ってマジでなんでも飲む理由にするからね。
「今日はいいことがあったから」も「今日はイヤなことがあったから」も等しく酒を飲む理由になる。
あのお花見って、(酒を飲む口実じゃね?)と思えてならない。
私は桜が嫌いだが、桜を好きな人たちのことをバカにする気持ちなんかない。
花見を口実に明るいうちから酒を飲んで騒ぐ人たちに対しては、冷ややかな眼差しを向けているが、それは別に対象が桜だからではなく、花火大会でもハロウィンでも同じことだ。
だが、先にも書いたように、日本人の大半は桜が好きらしい。
集計をとったら9割はいくんだろうか。それとも、中には私のように、隠れ桜嫌いが紛れているんだろうか。知らんけど。
そして世の中というものは多数派向けに作られている。
3月も後半になってくると、お天気ニュースで「桜前線」なるものも報じるようになる。
どこで三分咲きとか、あそこで五分咲きになったとか、そんな話題でもちきりとなる。
正直私には全然興味のない話だが、まあそれは別にいい。
「桜が咲き始めたねえ」
と、日常会話の冒頭がまずこれになる。「今日はいいお天気ですね」と同じだ。
ここで、
「いや、実は私は桜が嫌いなタチでして」
などと正直に言おうものならどうだろう。
「えっ!?」
と驚かれるだろうな。
で、
「なんで??」
と聞かれるだろうことは容易に想像がつく。
なんでも何も好き嫌いに理由なんてあるかい、とは思うものの、日本人なら当然好きだと信じて疑わず生きている人たちが圧倒的多数だから、まあ、仕方ないのかな、とも思う。
諸々考えてめんどくさいので、
「そうですね」
とニコニコ相槌をうつことになる。
「近所の〇〇川の川べり、今度の日曜には満開だよ」
とかなら、
「楽しみですね」
と社交辞令で言える。
私は楽しみじゃないけど、その人には確かに楽しみだろうと思うからだ。
ここまでも別にいい。
世の中には親切な人がいて、
「アンタ、今度の日曜は絶対に〇〇へ行きなさい。あそこはここらでも有名な桜どころだよ。行かないと損だよ」
とまで勧めてくれることがある。
「ああ、そうですかー」
と、これもニコニコ作戦で相槌を打つんだけど、どうかすると、次の月曜日に
「アンタ、昨日あそこへ行った?」
と確認してきたりする。
となると、少々めんどくさくなってくる。行ってないし、そもそも行く予定がない。人にお勧めするのはいいが、自分のお勧めどおりにしたかどうか、確認するのはやりすぎだ。相手にも選択の自由はある。
でね、これはまあ、些か極端な例ですが(でも実例)、圧倒的マイノリティというのは、こういう目にあう確率が非常に多い。
なぜなら、言葉を発する方には、
「もしかすると桜を嫌いな人もいるかもしれない」
という予想が、1ミリもないからだ。
「悪気がない」という言い方があるけど、それはある意味、悪意があるよりも厄介だ。
存在そのものが見えていないのだから。
「え、別に、フツーに桜好きだよ? キレイじゃない?」
という感性の人たちには、この息苦しさはちょっと想像できないかもしれない。
でも、3分でいいから、そこを頑張って想像してみてほしい。
日本のこの時期は、本当に桜一色に染まる。というか、
「日本人なら当然桜好きでしょ。好きだよね?」
という前提で出来ているものが多い。
これが薔薇とかガーベラなら、
「んーちょっと趣味じゃないわ」
と言える余地があるのだが(どちらも私は好きだけど)、桜にはない。
上に挙げた親切な人に
「私は桜が好きではないので、お花見も行きません」
と言ったら、
「えっ桜が嫌い? アンタ、日本の人じゃないの?」
くらいは言われるかもしれないし、
「へえー、変わってるねえ」
と引かれるかもしれない。多分、ポジティブな反応は返ってこない。
私は桜を愛でる人たちの感性を、自分とは違うな、と思うだけで、バカにすることも蔑みもしないのに、桜好きな人たちは、圧倒的マイノリティである「桜が嫌い」という意見を聞くと、若干バカにするのだ。
もちろん全員じゃないんだろうけど、そんなの1人2人にあたれば十分で、後はもうイヤな目に遭いたくないから、桜を好きなフリしてやり過ごすことになるわけだ。
その方が簡単で、話が早い。何よりあと腐れがない。
でね、ここまで書いといてなんなんですけど、桜が嫌いな私は桜の季節に圧倒的マイノリティである自分を痛感することにはなるんですが、実際、そこまで困ってはいないんですよ。
何故なら、桜は咲いたかと思うとすぐ散るからだ。
10日程度の我慢で、世間の話題は次の季節へと移っていく。
でもこれを、ずーーーーーっと味わうことになるのが、もともとマイノリティの資質を持って生まれてきた人たちだ。
ゲイだけどゲイじゃないふりで生きなければならなかった人たちなんて、どれほどいるんだろう。桜嫌いが10日間だけ桜好きなフリをする擬態なんて、別に苦痛というほどではない。めんどくさいだけで。
だけど、同性が好きなのに、異性のアイドルが好きなフリをしなきゃいけないとか、好きな色だって違うやつ言わないと気まずいとか、いやー……想像するだに大変だわ。
マイノリティの哀しさって、差別的な態度を取られるとか、イヤなことを言われるとか、そういうことだけじゃないんですよね。
「世の中に存在を認められていない」「いないことにされている」というのが、(え、じゃあ自分てなんなん)という違和感に繋がるのだ。
「和を以て貴しとなす」の国だ。実際、その「和」の精神で、色んな部分で調和がとれて、うまくいっていることも多いんだろうけど、「同調圧力」が変な方向にはたらくと、個々の感じ方や生き方の自由な発露を阻害することになる。
自分が多数派の方に属していると、気づきにくいというのもある。私も、親友が
「私、カレー嫌いなんだよね」
と言うのを聞いて、初めて(へえっカレー嫌いな人いるんだ!!)と驚いたもん。
でも、考えてみれば当然の話で、100人いて100人とも好きなものなんて、世の中には存在しないのだ。
なんでも自分を基本にしない。(相手は自分と違うかもしれない)と想像してみる柔軟性を持つ。
そして、自分の予想と違う反応が返ってきたときに、相手を否定しない。
これだけで、傷つく人が随分減る気がする。
……ということで、「桜嫌い」である自分の性質をネタに、マイノリティについて考察してみました。
イヤな思いをさせられる方であるのはいい。
逆の立場にはなりたくない。
そのためには、普段から色々とアンテナを立てて、電波を受信する感度を磨いておかないといけないな、と思いました。
まる。