おっさんずラブが好き!

ドラマ「おっさんずラブ」の細かすぎるレビューブログ。OLの深い沼にハマって当分正気に戻れません。ほぼおっさんずラブの話題しかないかもしれない。ネタはバレまくりなのでご注意を。

あちこちのすずさん

 今年の夏は、テレビの戦争特集をよく見ている。

 8月は毎年、(戦争について考える時期だな)と認識するんだけど、ついつい後回しにしてしまっていた。戦争は悲劇的で、二度と起こしてはならない惨劇で、つまりは「考えるのがしんどい」課題だからだ。

 けど、今年の戦争番組はなんか、ちょっと違う感じがする。「この世界の片隅に」がヒットした影響なのか、戦争の悲惨さをクローズアップするというより、

「あの時代にも今と同じように平凡な市民がたくさんいて、恋をしたり青春したり失敗したり、私たちと同じような日々を送っていた」

ことを描く番組が多いような。

 で、その方が、やっぱり共感するとっかかりというものが感じられるんだよね。そして、見ていてもしんどくない。

 当時の人たちはもっともっと辛かったのだから、少々しんどくても我慢して見なければならない、と、勝手に思い込んでいたけれど、違ったのかもしれない。

 しんどくて遠ざけるよりは、受け入れやすいソフトな形にしたとしても、思いを馳せる機会を増やす方が、いいのかもしれん。

 

 

 「あちこちのすずさん」は、そこに焦点をあてて作られた番組だった。

 戦争中でもパーマをかける女性がたくさんいたというエピソード、興味深い。ていうか、分かるわー。ちょうど今日、美容院に行ってきたんだけど、私のように女子成分の少ない性格であっても、伸び放題だった髪が綺麗に整うと、かなりテンションがあがる。

 物資も食糧も少ないわ、隣組だとかなんやかんやわずらわしい義務は多いわ、戦争中なんてストレスマックスだよ。そりゃ、女性なら、顔や髪を綺麗にしたくなるのは自然なことだ。

 シャンプーが出来なくて、シラミだらけだったというのはせつないけれど、本来食事の用意に使うべき木炭を、パーマネントに使っちゃう女性たち、いつの時代も女は逞しいな!と感心する。

 

 

 児童文学者の松谷みよ子氏の著作「現代民話考」の中に、戦争中のエピソードが出てくる。

 体育の先生が、「いっち、にー」という掛け声を「ヘッチ、二―」と発音するので、「ヘッチ」というあだ名がついていた、という話を読んだとき、思わず噴き出した。

 そんで確か、同じクセのある教師がもう一人いて、そちらは小柄だったから「スモールヘッチ」というあだ名だったんじゃなかったか。

 その短いエピソードだけで、先生がいないところで好き放題言い合うわんぱくな子供たちの姿が目に浮かぶようで、一気に親近感が沸いた。

 私が戦争中のことを知ろうとより深く思うようになったのは、この本の影響も大きい。

 今思えば、こうの史代松谷みよ子は同じ着眼点で作品を作っていたのだな。

 

 

 こうして、戦争に関する番組を視聴しながら、「おっさんずラブ」も見ている。

 おっさんずラブの録画視聴はもはや日常の習慣と化しているから、それはまあ、私にとって自然なことだった。

 最初、二つの世界は交わらなかった。パラレルワールドのように、「別世界」として認識されていた。

 ところが次第に、重なり始めた。

 

(戦争中もきっと、同性を好きになって苦悩する人はいたに違いない)

(いや、美輪さんも言うように、自然に任せて恋愛を楽しむ同性カップルも存在したかもしれない)

(平成・令和を生きる私たちが「おっさんずラブ」に熱狂出来るのも、戦争のような緊張状態がないからだ)

 

 「おっさんずラブ」が生まれたのも、1945年の太平洋戦争終結後、この国が戦争をしていないお陰でもある。

 「おっさんずラブ」に夢中になれる世界、そして「おっさんずラブ」のように優しい世界を実現し、維持していくためには、私たちの努力が不可欠なのだと思う。

 

 

 戦争中というと、なんだか大昔のような気がしてしまうけど、たかだか74年前。100年も経ってない。

 そもそも、江戸時代が終わったのだってほんの150年前ですからね。人間の本質や精神がそうそう変わるわけない。

 今の私たちと同じような人々が生きて、平凡な日常が営まれていたのだ。

 

 そこんところを踏まえつつ、戦争番組を見たり、おっさんずラブを見たりしています。

 全然違うようで、両者の距離は多分、そう遠いものではないはず。