おっさんずラブが好き!

ドラマ「おっさんずラブ」の細かすぎるレビューブログ。OLの深い沼にハマって当分正気に戻れません。ほぼおっさんずラブの話題しかないかもしれない。ネタはバレまくりなのでご注意を。

美女と野獣

 こないだ、金曜ロードショーでしたっけね、ディズニーの「美女と野獣」やってて、録画しました。

 学生時代の思い出と絡んで、ちょっとばかり思い入れのある作品なんですね。

 エマ・ワトソンの実写版の記憶も新しかったし、比較しながら見るのも面白い経験でした。



 結論から先に言おう。

 

 アニメ版に軍配!



 アニメーションのベタ絵ならではのよさと、実写の弊害がよく分かる作品だった。

 そして、ディズニー映画にそれほど親しんでいるとは言えない私からしても、「名作」と感じる出来でした。




 アニメはたくさんの「お約束」から成り立っている。

 人物の顔や動物の造形は誇張・デフォルメされたものになっていて、小さい頃からその絵に慣れているので何とも思わなくなっているけれども、実物とは全然違うものであることは、今更言うまでもない暗黙の共通認識になっているわけだ。

 動きも同様で、アニメのキャラは現実の人間が決してしない動作をしたり、跳ねまわったり、ときには物理法則を無視して軽々と飛んだりするけれども、フィクションであると承知して、私たちはその作品を鑑賞する。

 この部分が、アニメーション特有のデコレーションであって、その「装飾」もアニメを見る楽しみのひとつとなっている。

 で、この装飾が、物語の持つ毒やエグミ、荒い部分を目立たなくしてくれている。



 「美女と野獣」の野獣は、元は甘やかされた王子様であり、不躾で傲慢。食事のときにはひどいマナーだ。だけれども、あのアニメ絵と誇張された動き、プラス音楽のミュージカル仕立てで、ユーモラスで可愛らしい場面になっている。

 お皿に直接顔を突っ込んで音を立ててすする「犬食い」であっても、あー、躾がされていないんだな、王子自身がワガママだったんだろうけど、それにしても……と、教育係である召使の苦労を思ったり、王子自身の孤独な境遇に胸が痛んだりと、奥行きを感じさせる場面にもなっている。

 しかしこれが実写版だったとしたら……うーん、CG処理された実写版の方の食事シーンを詳しく覚えていないけれども、リアルに近い分、マナーの悪さに引いてしまう危険性が高くなりそうだ。少なくとも、あの野獣の見てくれで犬食いされて、「可愛く」は感じないだろうと思う。




 一番目立つのはガストンのキャラだ。ルックスがよく、女にモテるガストンは、ベルの中身をまるで無視して「町一番の美女だから」という理由で求婚する。ベルが好きな書物にも関心はなく(ベルが読んでいる本を取り上げてぬかるみへ投げ捨てる)、「ベルと結婚したい」という自分の願望を邪魔するものはすべて、ベルの父親も、ベルの関心の対象である野獣も、そしてベル自身も、「敵」と見なして攻撃する。

 リアルにいたら絶対に関わりたくないし、こんなヤツがそばにいたら走って逃げるレベルだ。

 ……が、それでもまあ、アニメのキャラとしては何とか成り立っているのが、ディズニーアニメの偉大さだ。

 白雪姫における継母と同じで、分かりやすい悪役だから、まあこれでいいのかもしれん……と、許容範囲と思えんこともない。

 ギリギリだけどな。




 でも実写版のガストン、お前はダメだ。フィクションとは言えこの世に存在してはいけない。

 女を顔で選び、その女性の人となりには何にも興味がない。ひどい差別主義者で病的なナルシスト。今なら何か名前がつくタイプの人格障害だと思う。

 歌っても踊っても、ガストンのキャラが本来持つ「棘」が、実写版だと浮かび上がり過ぎて、お話を楽しめない。

 そして、ガストンの盟友というか、ジャイアンの横にいるスネ夫というか、太鼓持ちというんですかね? ル・フーのキャラが、アニメだとちょうどいい感じのモブ具合なんだけど、実写だと

「いやあのさ、明らかに友達じゃないじゃん。アイツ、あんたのこと対等な人間なんて全然思ってないよ? ここまで酷い扱いされて、なんで友達続けてるの?」

とこんこんと問いただしたくなって、ル・フーの存在意義までが疑問になる。

 ガストンに秋波を送る三姉妹も、アニメならよくある記号的表現として流せるが、実写だと

「えー……あんな中身のぶっ壊れた男の本性も見抜けないで外見だけできゃあきゃあ言うなんて、脇キャラとしても頭おかしいんじゃね?」

てなって、ともかくガストンに肯定的に関わるキャラのすべてがひっかかる。

 モブはモブとして埋没していてくれないといけない。

 モブが変な意味で目立って、物語についていくのを妨げてはならないのだ。




 実写の弊害を最も顕著に感じたのは、ガストンが街中の人を煽って、野獣を殺そうとお城へ押しかけていく場面。

 これまで人と交流を持たなかった野獣は、実質何の迷惑もかけていないのに、

「お前を殺しにくるに違いない!」

と虚言で恐怖を吹き込み、挙句

「殺せ! 殺せ!」

の大合唱。

 アニメでも見ていて辛いが、実写版はもう、(え、これナチスとかそっち系の恐怖映画なの…?)てなるくらい、ドン引きだった。

 エマ・ワトソンの実写版、しばらく録画で楽しみたかったんだけど、この場面を見るのがイヤさに消してしまった。



 ドレスを着たエマ・ワトソンがどんなに綺麗でも、ラストのハッピーエンドが感動的でも、この「殺せ!殺せ!」ですべて台無しになるほど、私にとっては「毒」そのもののシーンだった。

 ここ、実写化したらあかんって……演出した人もどうかと思うわ。

 あれを可とするセンスを疑う。




 見どころである、ベルと野獣のダンスシーンや、クライマックスはどうかと言うと、これは実写もアニメもそれぞれ綺麗なんだけど、こちらもアニメに軍配があがるかな。

 アニメの誇張されたデコレーション、こういう場面でこそ生きる。ベタ絵なんだけど、それで十分。後は人の想像力が、それぞれの脳内で補えるし、むしろ想像の余地を残しておいてくれる方がいい。




 「美女と野獣」は、元々フランスのお伽話で、お伽話とか昔話って別に子供向けじゃないし、小さな文化共同体の中で継承されてきた「民話」だから、人間の本性が割と容赦なく盛り込まれていたりする。赤ずきんなんかもそうですやん。あれ、まんまドラマ化したらえげつないでっせ。マジで。

 そこを理解して、アクやエグミを抜いてマイルドにし、ベルと野獣を素敵なキャラクターにして、「野獣は真実の愛を知り、相手にも愛されて初めて魔法が解ける」という部分を核にしてロマンチックなラブストーリーに仕立てたのがアニメ版「美女と野獣」だ。

 脇キャラは、2人のラブストーリーを引き立たせるためのものであって、それ以上の意味を持ってはならない。

 あれを実写化した人は、多分その辺はあまり理解せずに、

「実写化したらウケるからこれもやっとこうぜ!」

くらいなノリで作ったんではなかろうか。

 少なくとも作品を観る限りでは、そうとしか思えない。

 ヒロインにエマ・ワトソンを据えて、女性受けするラブストーリーにしたいなら、ガストンをアニメのまんまのクズキャラにしてはいけなかった。

 容貌で女性にチヤホヤされて育ったガストンは、実は無意識下で女性に敵意を持ってしまっていて…とか、どうせならそういう部分に現代的な味付けをしてくれたら、まだ見られる作品だったかもしれん。

 興行的には成功だったかもしれないけど、私には受け付けられない。




 今さあ、昔のアニメを何でもかんでも実写化したり、アニメもアニメで、実写と見まごうばかりに精細に作り込んだりするけど、リアルにすりゃいいってもんじゃない、といつも思う。

 大事なのは、その物語の「核」が何かであって、絵の綺麗さは最重要課題じゃない。

 新海監督の作品、私は好きで、「きみの名は。」も何度も何度も見ているけれども、背景が美しすぎて、人物のベタ絵表現と乖離して感じられる場面もある。

 いや、綺麗な絵、好きですけどね。

 そこにお金と労力を費やす余り、肝心の「ストーリー」がおろそかになるなら、配分が違うんじゃないか、という話(新海作品がそうというわけではなく)。



 というわけで、「アニメーション」という表現技法の優れた点を、思いがけず再認識することになったのでした。

 ディズニーって偉かったんだなあ。。(今さら過ぎる感想)

 

 

 あと、「美女と野獣」は音楽が素晴らしい。

 アニメ作品の音楽って、昔はBGM程度にしか思ってなかったけど、そうではない、とこの作品が気づかせてくれることになった。

 「Beauty and The Beast」、名曲ですね。