おっさんずラブが好き!

ドラマ「おっさんずラブ」の細かすぎるレビューブログ。OLの深い沼にハマって当分正気に戻れません。ほぼおっさんずラブの話題しかないかもしれない。ネタはバレまくりなのでご注意を。

映像研には手を出すな!【2】 自虐しない、蔑まれもしない、新しいオタクの世界

※「オタク」という言葉の語義は、S40年代後半生まれの筆者が捉えたものです。年代によって定義が違うかもしれません。

 

 この世に「オタク」という言葉が誕生してから、どれくらい経つんだろうか。

 キャ〇テン翼や聖☆〇矢の同人誌が作られ(当時はまだ『やおい』と呼ばれていた)、メ〇ノンやジュ〇ンには絶対に登場しないファッションの青年たちが秋葉原に溢れるようになったころだと思うんだけど、あれは昭和の終わりかな。

 二人称代名詞が、「キミ」でも「あなた」でもなく「お宅」と呼び合う異彩を放つ一群、確かにいましたね。なんだったんだろうあのヘンな言葉のチョイス。

 だから、最初は間違いなく「オタク」というのは悪い意味だった。

 オタクと呼ばれる人たちは、そうでない人たちから、蔑みの意図を持って「オタク」と名づけられていた。

 で、当時は蔑まれる相応の理由があった。



 「オタク」=「余人には理解し得ない趣味に深く入れ込む人」、みたいな意味で紹介されることが多いけど、最初からそういう意味だったわけではない。

 その意も確かに含んでいたけれど、「オタク」と呼ばれる一群の、別の特徴を指して「オタク」と言われていたような気がする。

 子供のころって、仲のいい友人同士で妙な言葉がブームになったりするじゃないですか?大人の言葉を覚えて、お互いを「〇〇氏」と呼び合ったり、「我々は」とアジテーションのような言葉遣いをふざけてしたり、そんなの当たり前にある現象だ。

 だから、それはいいのだ。けれども、大抵の子供(ここでは中高生あたりを指していると思ってください)は、自分たちの文化を共有しない集団の中では、弁えて、仲間内だけの隠語的な表現を使わない。「空気を読む」と言うとちょっと語弊があるけれども、いわゆるTPOというやつですね。聞きなれない言葉を聞けば誰でも戸惑うし、仲間だけで内輪受けしてヘラヘラしているようでは、周りから浮き上がる。何より、お互い気まずい思いになる。

 中高生くらいにもなれば、「他人に無闇に気まずい思いをさせない」程度の心配りは出来るようになる。

 しかし、「オタク」と呼ばれる人種はそうではなかった。

 公共の場でも声高に「〇〇氏~!」と呼び合ったり、友人を紹介されて、いきなり自分の趣味について弾丸のようにまくし立てたりした。相手が自分の話を理解しようがおかまいなし。

 つまり、他者との交流をはかるべき場面で、相手の意図を慮ることなく、まったく自己流で事を進める人たち。マナーをわきまえないばかりでなく、ともすれば自分がある分野にかけて博識であることに非常に優越感を覚え、なおかつそれを剥き出しにするような人たちのことを指して、「オタク」と総称していたと思う。

 なんのことはない、重度にして傍迷惑なコミュ障かつ極度の自己中と断じて差し支えないでしょう。

 あの独特のファッションセンスだって、服なんて基本好きなもの着りゃいいけどさ、せめて周りの人が(うわぁ…)と思わない程度の清潔感は保った方がいいと思うわ。

 昔はステレオタイプのTHE・オタクがいたけど、あの人たち、今でも棲息してるんだろうか。



 ところが、言葉というものはいつの時代も、時間が経つと意味が変わってくるのですね。

 「オタク」=「マニアックな趣味を持つ人」にいつしか変容していった。が、「周りに言い辛い」「周りからなんとなく下に見られる」というオプションはそのまま残っていた。

 で、段々と、自分の趣味をマニアックだと自認する人たちが、自虐的に「私はオタクだから…」と言うようになった。

 そのうち、マニアックな趣味ならなんでもかんでも「〇〇オタク」と呼ばれるようになった。



 さらに時は経つと、今度は、そのニッチな趣味に沿う雑誌なんかが出てきますわね。どうかすると書店の雑誌棚のメインにどーんと平積みされてたりする。テレビで取り上げられたり、〇アゴスティーニの週刊分冊になったり、特に興味がない人でも眼にする機会が増えると、「えええーそんな趣味!?」と驚かれていたものも、「あー、なんかテレビでやってたね」くらいのノリになる。

 すると、趣味をカミングアウトする方も、「あ、私鉄オタなんで」とあっけらかんと言うようになる。

 かくして、「オタク」という言葉からは、当初の悪い意味はすっかり消え去り、「ちょっとマニアックな趣味を持つ人」並びに「その趣味に並々ならぬ情熱を傾ける人」くらいの意味になった。

 しかし、相変わらず「オタク」と告白する方は若干自虐気味に言うし、随分毒は薄まったけど、なんとなく「アンダーグラウンド」的な匂いもそこはかとなく漂っていたと思う。




 ここまでが、またしても長い長い前置きでした。




「オタク」という言葉が以上述べてきたような歴史を持っているという前提で、「映像研」を見てみよう。

 映像研の3人は、紛れもなくオタクだ。最初から「浅草氏」「金森氏」と呼び合っている。浅草みどりは特に、後に水崎ツバメに指摘される通り、「変わった話し方」を用いて会話するキャラだ。彼女がこれまで読んできた本or見てきたアニメ世界の言葉なんでしょうね。

 そういうツバメは、「〇〇氏」と二人を呼ぶことこそないけれども、オタクの範疇に入れて差し支えないだろう。アニメのことになると夢中になって、金森さやかの言う言葉もまるで耳に入っていなかったりする描写があるし、早口の趣味全開弾丸トークはオタクのお家芸でもある。カリスマ読者モデルの割に、ツバメが興味を向けるのはアニメオンリーで、服やメイクにはまったく関心なさげ。

 だけど、このアニメ、全編を通して、恐らく一度も「オタク」という言葉が登場していない(登場している箇所があれば訂正しますのでご指摘ください)。

 彼女たち自身が自らを自虐的にそう称することもないし、映像研のクリエイター・浅草・水崎両名のアニメへの熱量に辟易し、(こいつら…めんどくせぇぇ~!)とロボ研メンバーが慨嘆する場面があっても、「これだからオタクは…」的な述懐はない。

 「オタク」にも濃淡の度合いがあって、より「オタク」度が高いのが浅草氏と金森氏であり、ロボ研では部長氏になると思われるが、「どこからどう見てもオタク」な人と、「オタクっぽい」人、「オタクだけど一般人ぽい」人等、カテゴリ分けも見られない。

 物語の前半では、教師を詭弁で論破し、高校の同好会の範疇を超えた活動をしようとする金森さやかをプロデューサーに頂く映像研を「パブリック・エネミー」として目をつける生徒会も、「オタクだから」と言うこともなければ、他の生徒と異なるという点を指摘することもない。




 浅草みどりが最もオタクらしい性質を発揮するのは、好きなアニメの世界を説明する場面だ。

 例えば第一話、アニ研の上映会に潜り込んだ浅草みどりが、「この作品は何がいいのか」と金森さやかに聞かれて、メカやキャラクターの魅力、ディティール描写の演出の妙を、延々と説明し続け、辟易したさやかが「もういいです」とバッサリ切る。

 その切り方も、「求めた以上に解説されるのは苦痛です」という理由。同じような場面を他の作家が書いたら、「オタク全開じゃないすか」とかなんとか、そういう台詞を入れてもおかしくないし、実際入れても違和感はないと思う。

 が、ないのだ。

 その理由は、さやかの方もオタクだから……なんてことではない。

 もっと別の理由がある。




 私もこのブログ記事で何度か自分のことを「ヲタ」と自称している。登場頻度の高い「変態」という呼称(と言っていいのか)は、言わば「ヲタク」の最上級であって、他の自称「変態」さんたち同様、そこには自虐が含まれる。

 ここまでひとつの対象(私の場合は『おっさんずラブ』というドラマ)にハマり、いつまでも抜け出せないのは、「普通じゃない」という価値観を前提とした自虐だ。

 自分で分析してみせるのもアレだけど、つまり私が自分のことを「変態」「ド変態」と称するとき、そこには

「ここまで入れ込んでひとつのドラマに関するレビューやら感想やら役者やらのことについて延々書き続けてるのって普通じゃないですよね、スミマセン。自分でも分かってるんですよ、分かってるんですけどやめられないんです。分かる方だけ分かってください」

的な、羞恥心をまぶした「分かってるんですよ」アピールがある。

 いずれにせよ、「ひとつの対象に深く入れ込む」ことは、普通じゃない、という暗黙の共通理解があるわけだ。

 もちろん、まっとうな社会人として働き、自分の時間と金を好きなものに費やすことに何の負い目もないわけで、今の時代、そんなことで他人の趣味を攻撃するような大人気ない人もかなり減っている(ゼロではない)ことも分かっている。

 分かっているけれども、どこかに「普通の人」=「何かに心を捕らわれて家計を圧迫するほどの金額を投じたりすることなく、淡々と盛り上がりのない生活を送っている」みたいな思い込みがあるような気がする。

 実際、例えば某アイドルの握手会チケット付きCDを爆買いする人に対して、自分は何ひとつ迷惑を被っていないにも関わらず、

「イイ年してイタイんですけど」

と冷ややかに見下す風潮、今でもある。

 その趣味が何かの役に立つとか、利益を生まないのであれば、そんなことに傾倒するのは生産性がない、といったような非難を聞くこともある。



「映像研」は、オタクたちの世界を描いているのに、「オタク」という言葉が登場しない。

 「オタク」という言葉がそもそもないのだ。そして、今現在我々が持っているような「オタク」の概念が、最早消失している世界なんじゃないかと思われる。

「映像研」メンバーが、アニメ制作に情熱を傾けることに対し、誰も否定しない。「オタクっぽい」からと蔑まれることもない。

 生徒会は、学校運営の観点から映像研の活動に制約を加えようとすることはあるが、作品制作に関しては特に何も言わない。

 つまり「映像研」の世界は、「ひとつの対象にマニアックな興味を抱き、情熱を傾ける」という行為が、全肯定されている世界なのだ。

 だから、浅草みどりも水崎ツバメも、技術や演出面でつまづいたり苦労したりしながらも、好きなアニメを描くことに没頭し、伸び伸びと才能を開花させていく。

 スキルが進化するにつれ、作品世界のグレードもアップし、彼女たちの眼に映る世界も美しく輝いていく。




 つまり「映像研」とは、「オタクが一切差別されない世界」であるばかりか、「オタクと一般人の区分け」自体がなくなっている世界なんですね。

 舞台設定は2050年代とのことだから、「ちょっと先の、実現しているかもしれない世界」を描いているという点では、「おっさんずラブ」に共通するものがある。

 「差別のない世界」って、差別される側にとって平和であるだけでなく、差別してきた側にとっても優しい世界なんですよね、実は。

 この漫画を描いた作者が、現在弱冠27歳の若者である事実も、非常に頼もしく思える。



 続きます。