大通りから1本入った脇道の半地下にある店。知らない人は気づかない店構え。
どっしりした木製の扉が少し開けてある。
ストッパーを外して扉を引くと、中からふわっと風が通り過ぎる。
ドアの上部に取り付けられたカウベルが、カラン…と乾いた音を立てる。
あら、いらっしゃい。
しばらくぶり……なんてもんじゃありませんね。半年ぶりですか?
ええ、嬉しいですよ。ここを忘れずにいて下さって。
営業ね、ええ、まあ続けてますよ。一応は。
ただ、見ての通りの閑古鳥でしてね。
開店休業ですわ。
一杯め、ビールでしたよね。
え、ビールはいらない? スピリッツにする?
へえ、どうしたんです? ビール党のあなたが……
ああ、健康診断ね。引っかかったんですか。糖質を控えてる、と。へえー。
じゃあ、お酒はよした方がいいんじゃないですか?笑
ええ、ええ、そうですよね。分かっちゃいるけどやめられない、ってやつですね。あたしも同じですよ。
じゃあハイボールでね。はいよ。
何のウィスキーになさいます?
白州ね。承知しました。
背の高いガラスのタンブラーに、角を取った氷を入れる。
褐色の液体を注ぎ、強炭酸水で割ってステア。
炭酸の弾ける爽やかな音と、氷がグラスを鳴らすカロンカロン……という音が耳を慰めてくれる。
ハイ、どうぞ。これ、ライムの輪切り。お好みで絞ってくださいな。
美味しいですか。よかった。
ええ、ありがとう。あたしもいただきますね。
え、テレビ? いいえ、つけてません。
もう、ちょっとね。ろくなニュースがないじゃないですか。
こないだから、テレビも新聞も見ないことにしてるんですよ。
悲しいことはもうたくさん。
困ること? 特にないですね。
少なくとも今はね。
何か食べます? 太らないメニューですか。分かりました。糖質と脂質控えめな何か、お出ししましょうね。
女主人、カウンターの向こうへ声をかける。
間もなく、トントントン……と包丁で野菜を刻む音が聞こえてくる。
え? ええ、今ね、お料理の人がいるんですよ。結構前からいてくれてる人でね。
このご時勢、人を雇う余裕があるのかって? まあその辺はね、内緒ですけど。笑
条件にこだわらず、いてくれるんでね。助かってます。
ああ、出てきた。ハイ、ああ、シーザーサラダね。
こっちは唐揚げ? 揚げてないの? 胸肉で衣つけてグリルで焼いたのね。じゃあヘルシーだわね。
ありがとう、カズコさん。
どうぞ。この揚げない唐揚げ、美味しいんですよ。シーズニングっていうんですか? アレが、うちのカズコさん特製で。
2杯め、同じのですね。はいよ。
ホッとする味? よかった。
食べたいもの、どんどん仰ってくださいね。
ああ、そうですか。お客さんの会社もね。テレワークで。あれ、意外とストレスが溜まるって言いますもんね。運動不足になるし。
通勤のストレスから解放されたはいいけど、3~5kg太っちゃった人が多いんですってねえ。家に居続けで、家族ともケンカになったりね。
そこへ持ってきて、先行きどうなるか分からないんじゃね……みんな、不安な気持ちを抱えたまま暮らしてますよ。ええ、仰る通り。
さて、と、今日はどれになさいますか?
え、そっちもやってるのかって? やだ、お客さん。当たり前じゃないですか。
ここは腐っても「OL Bar」ですよ? いや、腐っちゃいないけど。いやいや、腐ってると言えば言えなくもないか。
いえいえ、何でもないです。こっちの話。
こんなときはね、すかーっとする、深刻じゃないやつが一番。
第5話がおススメ。
それでいいですか? OK。
壁面が大きなスクリーンになり、「おっさんずラブ」第5話が始まる。
ねえ、色々ありましたけど……やっぱり、何度見ても可愛いですよね。
え? 現実逃避してていいのか悩んじゃうって?
現実逃避したっていいんですよ! むしろするべきだとあたしは思ってるんです。
みんなね、普段頑張ってんですから。思う通りにならないことばっかで。知らないうちにストレス溜めてる人、たくさんいるはずなんですよ。
プライベートでこうしてね、お酒飲んだり、好きなDVD何度も何度も見たり、推しのブログを覗いたりね。自分を思い切り癒してあげるの、必要なことだと思いますよ。あたしは。
「ガス抜き」を上手にしないと、潰されちゃいますよ。
今ホントに、みんな大変なんですから。
え、なんです? ……ああ、会社でね。ふんふん……
ああ、ありますね。そういうこと。
辛いですねえそれは。
いえいえ、性格悪いなんてことありませんよ。ていうかね、みんな悪いんですって。性格なんて。生きてりゃ年相応にね。
いい人にしか見えないとしても、腹では色々考えてるもんです。そんなもんですよ。
何の苦労もしてないように見える人だって、裏では人知れず悩んでたりもしますしね。
愚痴たれたっていいじゃないですか。
こぼしてスッキリすりゃいいんですよ。
元気出てきた? よかった、嬉しいわ。
ちょいとお腹に溜まるもの、ね。じゃ、鮭と枝豆のパスタ、いっときますか。
量を控えめにすれば、糖質も脂質も大丈夫だと思いますよ。
カズコさーん、鮭と枝豆のパスタ、お願いね。カロリー控えめでね。
ハイ! もう出てきました。早いわね。
次これじゃないかと思ってたって? さすがカズコさん。
いえね、お客さん、この人も結構な民なんですよ。沼にハマって随分経つんですって。
ねえ? カズコさん。
あらやだ、向こう行っちゃった。ごめんなさいね、愛想なしで。
ああいう人の方が安心する? ハハハ、お客さん、ユニークですね。
ええ、そう、裏表はないんですよ。お愛想も言わないけど、お世辞も言わないですから。
嘘をつかないのが一番。
あ、グラス空いてますね。次何にします?
白ワイン。そうですね、このパスタ、白が合います。
白なら糖質も比較的低いはずですしねえ。
ちょうどチリの美味しいのがありますわ。
ハイ、どうぞ。
ああ、そういや、こっちの方もね。
これ、置いときます。
新作ですって。相変わらずの遅筆で。
あら、電話だ。
ごめんなさい。ちょっと外します。
女主人、裏へ行き、数分後に戻ってくる。
すみません。野暮用でした。
もう読んだんですか? お客さん、速読ですね。
ええ、あたしも好きですよ。このお話。
2人、幸せに暮らしてるといいですよね。
え、はるたんはどうなってるかって?
……ああ、確かにね。部長と同棲して、家事スキルアップしてましたもんね。
劇場版では唐揚げに挑戦してましたし。……真っ黒こげにしちゃってましたけど。
あれから成長……どうでしょうねー。意外と戻っちゃったりして。
いえね、成長神話否定派とか、そんな大げさな話じゃないんですよ。
だって、しょうもない生き物じゃないですか。男なんて。
一人じゃなんにも出来ないし、そのクセ人にしてもらったことに感謝も出来ない。奥さんが一人で孤軍奮闘しててもノンキにゲーム三昧なんてね、ろくでもない男がいーっぱい、この世の中にはいるんですから。
はるたんは愛嬌もあるし、可愛げもある。怒られたらちゃんと自分を反省するし、何より感謝の心がありますよね。
それで十分じゃないかと思うんです。
成長してればHappyだし、成長してなくて、牧くんに頼ってばかりでも、それはそれで。
そもそも、牧くんがスーパーイケメン過ぎるって話で。笑 顔も頭もよくて、スタイリッシュで、爽やかで、仕事も家事も人並み以上に出来ちゃうってねえ。少女漫画かって。あ、ドラマだった。笑
でも、そんな牧くんにも足りないところがある。そこを、ちょうどよくはるたんが補ってるのが、あの2人のよさでしょ? ね?
そこら辺はね、人によって違うんじゃないですかね。
こうあって欲しい二人の未来の形って。
え? ええそう、あたしは「何でもアリ」派です。笑
まあ、ね、こんな世の中ですから。
なんかね、生きてる限り、人は成長しなきゃいけないとか、〇歳までにはどれくらいになってなきゃいけないとか、なんとなくそういう「モデル」に縛られてる感じがしません? 無意識に。
劇場版ではるたんも、周り中がみんな「夢」を語ってて、戸惑う場面がありましたやん。
「夢」を持ってへんとあかん言うのも、なんか、いつの間にかすりこまれた思い込みやと思うんですわ。
アラやだ、関西訛りが出ちゃった。ちょっと酔っちゃったかしらね。
夢を持つのはいいんですよ。でもね、特定の夢がなくたって別に、それはそれでいいと思うんです。
毎日生きてるだけで立派なもんですよ。人に迷惑をかけずにね。
夢を持ってないからどうとか、他人がああだこうだクチバシを挟む言われはないし、夢のない自分をつまらないとか、劣等感を持つもんでもないと思うんだな。
人を責めることなんてない。
自分を責めるのはもっとない。
アララ。やだ。泣かせるつもりはなかったんだけど。
ホラ、おしぼり。あ、ティッシュもね。ハイ。
しんどいこともありますわね。
みっともなくたっていいじゃないの。
あたしなんて、泣いてぶちゃむくれにならなくったってこのご面相ですから。
これでも頑張って生きてんですからね。笑
あたしが喋り過ぎちゃったわね。
え? 飲むといつもそうって? ハハハ、確かにね。
次焼酎? ロック?
ああ、それはやめといた方がいいわ。
疲れてるときにね、ほろ酔いになるのはいいけど、強いお酒飲み始めると、飲まれちゃうからね。
その辺にしときなさい。
じゃあ、度数低めのハイボールなら作ってあげる。
それでいい?
よっしゃ。じゃあ、それで今日はお開きね。
あたしの出身地?
アハハ、それはまあ、西の方ということにしといてくださいな。
そこはね、ミステリアスな女ということで。
ね。笑
ありがとうね。ここを思い出してくれて。
ええ、もちろんですよ。いつでもどうぞ。
ここはいつでも開いてますから。
では気をつけてね。
おやすみなさい。