ミステリが好きだ。
江戸川乱歩の少年探偵団に始まり、コナン・ドイル、エラリー・クイーン、横溝正史、有名どころはほとんど読んできた。
色々読んだけど、不動の一位はアガサ・クリスティ。
ミステリというジャンルの社会的地位を引き上げたのはクリスティの功績だと思う。
「ABC殺人事件」も、「スタイルズ荘の怪事件」も、「そして誰もいなくなった」も、「ナイル殺人事件」も、何度も何度も読んだ。
でも一番読んだのは「オリエント急行殺人事件」だと思う。
上に挙げたどの本も、母の蔵書で、私が知ったときは既に古典だった。
古びた文庫本は表紙もページも変色して黄ばみ、綴じ部分も脆くなって、ぽろっと外れてしまっているところもあったけど、その古色がついた感じとか、古本独特の甘い香りとか、全部ひっくるめて好きだった。
オリエント急行は、もしかするとミステリ史上最高の作品なんじゃないかと思う。
冒頭から、途中の展開、たくさんいる登場人物の登場場面、ポアロの台詞、すべて頭に入っているのに、何度読んでも面白い。
クリスティ作品の登場人物は、作家が書こうと思っている事件や謎のためのご都合主義的な動きをしないし、「あーいかにも推理小説」な台詞も言わない。
様式美とお約束に満ちているタイプのミステリも、それはそれで楽しめるのだけれど、そういう作品を読んだあとにクリスティを読むと、今も昔も変わりない人間心理の複雑さや、弱さ、それゆえの哀れなど、重層的な味わいの素晴らしさに気づく。
イギリス女王がクリスマス前になると「クリスティの新作はまだか」と側近に聞いていた、というのも頷ける。
で、こないだテレビでやっていた「オリエント急行殺人事件」、見てみました。
感想。
まず冒頭、(おっ、嘆きの壁!)とそこが気になった。
(え、本物? まさかセットじゃないよね? でもあそこ映画の撮影なんて許可されるの?? でも周りのユダヤ人も本物ぽいしな……)
(でも、たくさんの巡礼者が手を触れて祈るから、人の背丈から下はかなり黒ずんでいたし、岩で出来た壁も摩耗してつるつるになっていたはずだけど、そうは見えないな……)
と、目を凝らしてじいーっと見た。
本物だったみたいですね。録画を繰り返し見たら分かった。
画面の色彩調整で壁が白っぽく編集されていたのかも。
しかしこの冒頭のシーンがもう、原作とは違うんだな。まあそれはそれで、ポワロの偉大さを伝えるための演出だったらしいので、よしとすることもできる。うん。
私はたまたま行ったことがある場所だったので、懐かしさもあってこの場面嫌いじゃないけど、そうでない原作ファンにはどう映ったんだろうな?
クリスティが生み出したキャラクターの中でも随一の人気を誇る名探偵ポワロ。今までたくさんの役者がこの探偵を演じてきた。
小男の洒落者で、ご自慢の髭はいつだってお手入れが行き届いていてピンと顔の左右に張り出して存在を主張している。小粋なスーツをりゅうと着こなし、どんな悪路にも磨き上げた革靴で登場する。
自分で自分のことを「世界一の偉大な探偵」であると信じており、初対面の人にも面と向かって堂々と自画自賛してみせる。
場違いなオシャレをした奇妙な小男の探偵が、そっくり返って自分アゲを吹聴するさまがユーモラスで可笑しいんだけど、事件が起こると灰色の脳細胞が静かに仕事を開始し、細かな違和感も見逃さず、真相にたどりつく。
…という、外見上の特徴がかなり重要な要素となるキャラクターなんだけど、んまあ、それはそれは実に「らしくない」ポワロが何人いたことか。
特に今は、デビッド・スーシェという、稀代のポワロ俳優を知ってしまっているからね。我々。ポワロを演じるために生まれてきたような俳優さんでしたね。
なので、他の誰が演じても、スーシェ以上にポワロに肉薄することは出来ないだろうけれども、それ以外のところで面白ければいいや、と、あまり期待しないで見た。
だから、ケネス・ブラナーが全然ポワロの要素を満たしてないのは、別にいいのだ。
小男がそっくり返って自画自賛しているのが面白いのであって、177cmあるハンサム・ガイが同じことをやれば、単に尊大でイヤな奴になっちゃうけど、そこも物語の軸にはそれほど影響を及ぼさないから看過できる。
というか、初回はまあまあ、(ふーん)と思いながら見たんですけどね。
後から見返して、(いや、これはないな)と感じたのが、割と冒頭にポワロがいう、
「世の中には悪と善の二つしかない」
この台詞だった。正確じゃないけどこんなニュアンス。
欧米のこういう価値観、映画を観ていれば分かるし、別に今更なんだけど、
(ポワロはこんな台詞言わないな)
というのが私の感想だった。
クリスティの作品が「人間を描いている」という点で秀逸であり、同じ時代の他のミステリ作品と一線を画すのもまさにこの点だと私は思っていて、「世の中は善と悪に二分されるわけじゃない」という価値観が、クリスティ作品の軸であるとすら思う。
「ハウルの動く城」の映画と原作を見比べたとき、ハッキリと異なるのが、荒れ地の魔女の扱いだ。原作の魔女は悪い存在でしかない。それを、宮崎駿監督のアニメ映画版ハウルでは、途中から魔女をハウルファミリーに加えて、「ワーンちゃん♡」とかすっとぼけたこと言いながらも、いざとなると悪さをしてソフィーを困らせる、ソフィーもハウルもそれを分かっていて、ファミリーから追い出したりしない。
この辺、人間とは善悪併せ持った存在であり、何が善で何が悪かなんて明確に割り切れるものではない、という価値観を打ち出した宮崎駿監督の方が、私にはしっくりくるし、作品としての奥行きも増していると思う。
クリスティ作品のどれも、人間を善と悪とで二分したものなどない。殺された側にも、殺した側にも、複雑に入り組んだドラマがあって、だからこそ真相が明かされたときに、ドラマチックなクライマックスを味わえるのだ。
そして、種も仕掛けも分かっていながら、何度でも読み返してしまう。
なので、ケネス・ブラナ―のこの台詞で、クリスティ作品に造詣が深いわけでも、原作を読みこんだわけでもないんだな、というのは分かってしまった。
ただ、「見なきゃよかった。見て損した」とは思わなかった。
この映画を観ることで、新たな発見が色々得られた。
一番は、
「原作の本質を理解しないまま作っても、そこそこ見られる映画が作れる」
ということだ。
これ、すごくないですか? ていうかまあ、多分こんなことは常識中の常識で、私が今回初めて気づいただけだとは思いますが。。。
クリスティ作品の魅力に「旅情性」があって、クリスティ自身が旅好き、考古学好きで、エジプトだのシリアだのヨルダンだの様々な場所を訪れていて、作品の舞台としても使っているんですよね。
だから、豪華船だの急行列車だのが使われるし、登場するキャラクターも国際色豊かだ。
本作は特に、侯爵夫人や伯爵夫妻、女優、医師、小間使い、運転手と、国籍も職業も様々な人々が登場する。
(! そうか! 西村京太郎サスペンスの超豪華版だ!)
というのが今回、目からウロコでした、ハイ。
だから、クリスティの作品は昔からよく映像化されるんだな。。。
で、オリエント急行の豪華でレトロな車内を、結構なお金をかけて再現してるんですね。その辺の映像は確かに楽しめる。
それに、「オリエント急行殺人事件」は、私が知ったとき既に古典だったくらいだから、今では全然知らない人も多いだろう。そういう人が原作を読むとっかかりとしても、こういう映画が作られる意義はあるのではないかな、と思いました。
なので、ポワロは全然ポワロらしくないし、謎が解かれていく成り行きも、うーん……な感じで、原作ファンとしては納得のいく出来ではないのですが、
「まあ、これもアリっちゃアリ」
というのが雑な感想でした。
ポワロ、見た目もそうだけど、声がなあ。草刈正雄は草刈正雄だからさ。。。
あ、山村紅葉の侯爵夫人は予想外によかったです。
あと、ラチェット役のジョニー・デップはさすがでしたね。この人、座長と同じで、どんな役でも楽しげに演じこなすね!笑
カリブの海賊をやらせても、チョコレート工場のウォンカをやらせても、キューバのオカマをやらせても、本当に「この人しか出来ない」味わいを残す名優だなあと、そこは心に残りました。
しかし、1934年に発表された作品が、今なおこうして新しく映像化され、人々に広く愛されているって、本当に凄いことですよね。86年前ですよ。
クリスティが描くドラマが、いかに普遍的であるかは、この事実ひとつとっても分かることだ。
この映画を見て、アガサ・クリスティの新たなファンになる人が世界中に増えてくれたら嬉しい。
その意味では、次作も楽しみです。