痛いんです。
こんばんは。今宵も閲覧いただきありがとうございます。
さて、記事の更新頻度は一向に増えておりません。
前の記事に書いた通り、痛いところがあると、どうも文章を練るスイッチがオフになるのです。
そう、まだ痛みとの闘いは続いております。
闘い……じゃないか。闘ってない。
おつきあい、ですかね。
不本意ながら。
痛めたのは右のアバラだったんですが、今度は正反対の左アバラが痛くなった。
「右をかばうから、左に無理がきてるんだよ」
とクリニックで言われた。
人間のバランスってすごいですよね。普段、無意識に色んな部分の筋肉が連動して動いているんだな。それが崩れると、やっぱ負担が増すんだ。
午後、左側が前触れなく、きゅうっと差し込むように痛くなる。
息が止まりそうになるのをやり過ごし、顔をしかめないよう取り繕うのが大変。
まだある。
「ばね指」ちゅーものも発症した。
左の親指の付け根が痛くて、曲げようとするとがくんっと不随意な動き方になる。
これも左手の使いすぎなんだって。
手の指って、どの指も痛めると(こんなに不自由になるのか…)と驚くけど、「左手の親指」て重要度高くないですか? あ、私は右利きなんですけどね。
左手の親指を封じられると、出来ない動作がたくさんある。ペットボトルの蓋開けるのも、薬の錠剤を指で押し出すのも、急いで着替えててズボンを履く動作とか。雑巾絞るのにも工夫が要る。
なんかもー、あちこちが痛い。
私のような軽症でも、これほど後遺症が出て、完治まで時間がかかる。
事故なんて遭うもんじゃないですね。。。
こういう、一見すると「悪いことが連続して起こっている」ように見えるとき、例えば「罰が当たった」などと考えることは簡単だけど、危険性を孕む考え方だと思う。
人間はすべての物事に意味を当てはめたがる生き物だ。その方が事象を捉えやすく、記憶しやすい。人間の脳はそのように出来ている。
自分の周りに起こった出来事を、自分がもっとも都合がいいように解釈し、当てはめる分にはいいと思う。
私はこないだの事故を、避けられたのに危険を予測出来なかった自分にも落ち度があると思っているし、(痛い目に遭ったけど勉強になった)とも思っている。
「100日後に死ぬ私」という文章を書いた110日後に事故に遭ったことについて、「言霊が発動したのだ。私があんなタイトルの記事を書かなければ事故に遭わなかったかもしれない」と思うことも出来る。若干オカルトチックな方向に傾くけど、まあ、私が自分で思っている分には他への影響はない。
「いい歳をして軽率な私に対して、守護霊がメッセージを送っているのだ」というような考え方もありますわね。「だから、事故の規模の割に、外傷はなかった。あなたに思い知らせるために乱暴な手段を使ったけれども、基本守ってくれているよい霊のしわざです」くらいのことを言う霊媒師なんかもいそう。
ことほどさように、身の回りに起こる出来事は、考え方ひとつで、どうとでも解釈が可能なものなんですよね。
繰り返しになるけど、私が、自分に起こった出来事を、どう捉えようとも、それは別に害がない。言霊の発動だろうが霊の仕業だろうが、私が勝手に信じ込んでいれば済む話。
ただ、それを他の人に吹聴したりし始めると、また違った話になる。
でね、こういう考え方って、ホント、都合よくどうとでも当てはめることが出来るじゃないですか。
一度そういう方向に傾くと、どんどんオカルトチックな考え方に浸食されていくんですよ。
周りの出来事すべてに意味があると思うのは、自分の行いを振り返ってよりよい方向へ行こうと努力するためにならいいけれども、そうでなく、例えば「高次元の存在からのメッセージ」などと思い過ぎると、とんでもなく独りよがりでエゴイスティックな考え方になる危険性を秘めている。
学生時代、仲の良い友人がいた。
その頃の大学は、新興宗教の巣窟でもあって、出自のよく分からないサークル(大抵語学系)がうようよあって、田舎から出てきた世間知らずの若者を取り込もうと、鵜の目鷹の目で狙っていた。
私の友人はそこに取り込まれてしまったんですね。元から熱中しやすく、真面目で熱心なタチだから、あっという間にのぼせあがってしまった。
それだけでなく、周りの友人たちにも勧誘の触手を伸ばし始めた。
私は割と宗教も好き嫌いなく、古事記とか聖書とか読むの好きだったし、新興宗教の教義の胡散臭さにも辟易していたし(有名どころは一通り目を通していた)、私のところに勧誘に来てくれたら舌戦を繰り広げて論破してやる、カモン!!と待ち構えていたんだけど、華麗にスルーされてしまった。
代わりに、心が優しくてなかなか断れない性格の別の友人が被害に遭っていた。
その取り込まれてしまった友達、Aちゃんとしよう。
私も、他の友人たちも、Aちゃんを心配していた。本人は自分のやっていることを正しいと信じていて、「毎日が楽しい。幸せ」と言っているけど、あのサークルやばいよね?というのは公然と囁かれていたし、辞めた方がいいと思うけど、どうにも手段が分からない…と、悩みもした。
まだオウムとか、幸福の科学とか、そういうのが社会問題になるハシリくらいな時代だったのかなあ。
そこに、阪神大震災が起こったのです。
私自身は被災したと言えないレベルだったけど、歩いて10分以内の場所にあった大学の校舎は、向きによっては棚が倒れて片付けが大変だったりしたし、神戸に住んでいた教授が大学まで来れず、授業が出来なかったりもした。神戸に実家があるクラスメイトたちは、半壊の自宅に教科書があって、取り出せないと言って苦労したりしていた。
大阪も、ガス管が壊れたり、一部断水したり、神戸ほどではなかったけど、無傷とは言えなかった。
幸いなことに、私の知人友人は全員無事だったけれども、色々大変ではあった。
それはいい。
他の友人たちとも連絡を取り合い、お互いの無事を喜びあったりしていたとき、件のAちゃんがこう言った。
「私たち、信仰があったから、全員無事だったの~!」
あのときの、一瞬で腸が煮えくりかえるというか、脳が沸騰するみたいな気持ちは、今でも忘れられない。
「絶句」とはこのことか、と思った。
何を言っているのだ。
潰れた建物の下敷きになって亡くなった人たちは、じゃあ、みんな「信仰がなかったから」「不心得だったから」死んだとでも言うのか。
いやそれ以前に、あのときは本当に、日々刻々状況が変わっていって、しかも一日経つごとに明らかに絶望度が増していって、ニュースを見るたびにぎゅっと胸が締めつけられるような思いになっていた。
どの局も震災のニュースしかやってなくて、判明した死者の名前がテロップで流されていて、もしや知り合いの名があるのでは…と恐々としつつも、見ずにはいられなかった。
その人たちと、助かった自分との間に、何か特別な差異があるかどうかなんて、考えもつかなかった。
ていうか、あの状況で思うことがそれなの??
本気でそんなこと言ってるのなら、あんたの信じてるのって神様じゃなくない?
……というようなことを、当時の私も思ったはずだ。どこまで口にしたかはもう覚えてないけど、多分、頭に血が上って、何も言えなかったんだと思う。
エゴイスティックな思い上がりと、膨大な数の犠牲者への壮大なdisりに、吐き気がした。
Aちゃんとはそれから間もなく友人関係を断った。
それきり会っていない。
スピリチュアル系の考え方を一概に否定するものではない。みんな大好きオカルト話も、私だって好きだし、(これは〇〇という神様のお導きだな、うん)みたいな考え方だってよくする。
ただし、自分に都合のよい解釈であるということは自覚しておかないといけない、と肝に銘じている。
行き過ぎた意味づけは、意味の反対側で意図せずに誰かを否定することに繋がりかねない。
悪いことが立て続けに起こることだってある。
震災なんて、天から降ってくる禍いだ。それはある意味平等で、誰の上にも降りかかる。生と死を分けるものは偶然でしかない。
起こった出来事のカードを、自分本位に並べ替えて、勝手な意味を導きだすのは、愚かなことだ。
3月11日、色んなメディアで東日本大震災から10年の話題を取り上げている中で、私も色々と思い直したり思い返したりしていた。
その中で、一度取り上げておきたいと思っていたネタだったので、今回記事にしてみました。
スピリチュアル系や占いを信じるのはいい。だけど、エンタメとして機能しないのなら、時として有害となるコンテンツだと心得ておかないと、人を傷つける。
上に書いたような例の他、私がもっとも愚かしい占いとして憎むのが「血液型占い」だ。
これについても言いたいことがてんこ盛りあるのでまた今度。
本日は以上!